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text:senjusho:m_senjusho06-12 [2016/08/04 22:29] – 作成 Satoshi Nakagawatext:senjusho:m_senjusho06-12 [2016/08/04 22:29] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa
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 人もまたしかなり。春の朝に花を詠ずる族(やから)、花や先、人や先、何れかさい立たんとせる。秋の夜、月をながむる人、月や先に雲に隠れん、われやまさに隠れなん。げに、雲間を照らす稲妻の、ほどなきほどの身をもちて、わが身の上を讃め、人の上を言ひて、羊((「羊」は底本「年」。諸本により訂正。))の歩みの近付きぬることをも知らざることの、いと無慙には侍らずや。 人もまたしかなり。春の朝に花を詠ずる族(やから)、花や先、人や先、何れかさい立たんとせる。秋の夜、月をながむる人、月や先に雲に隠れん、われやまさに隠れなん。げに、雲間を照らす稲妻の、ほどなきほどの身をもちて、わが身の上を讃め、人の上を言ひて、羊((「羊」は底本「年」。諸本により訂正。))の歩みの近付きぬることをも知らざることの、いと無慙には侍らずや。
  
-あはれ、深き御法(みのり)を知るまでのさきらは侍らずとも、無常を常に忘れぬほどの心を、仏の付け給はりて、わが身をさしはなちて、思ひをとどめて、後世のつととし侍らばや。高野の大師((空海『三教指帰』上))の御言葉に、「曲れる蓬、麻にまじはれば、ためざるに自然に直る」といへり。まことなるかなや。+あはれ、深き御法(みのり)を知るまでのさきらは侍らずとも、無常を常に忘れぬほどの心を、仏の付け給はりて、わが身をさしはなちて、思ひをとどめて、後世のつととし侍らばや。高野の大師の御言葉((空海『三教指帰』上))に、「曲れる蓬、麻にまじはれば、ためざるに自然に直る」といへり。まことなるかなや。
  
 しかあれば、げにげに、かからん人にそひて、常は世のはかなきことをも聞き侍るものならば、わが心をためんとにはあらず。自然に直(すぐ)にして、無常をも悟るべし。 しかあれば、げにげに、かからん人にそひて、常は世のはかなきことをも聞き侍るものならば、わが心をためんとにはあらず。自然に直(すぐ)にして、無常をも悟るべし。
text/senjusho/m_senjusho06-12.1470317343.txt.gz · 最終更新: 2016/08/04 22:29 by Satoshi Nakagawa