text:kara:m_kara018
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text:kara:m_kara018 [2014/11/30 02:18] – Satoshi Nakagawa | text:kara:m_kara018 [2014/11/30 02:35] (現在) – [4] Satoshi Nakagawa | ||
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かくて日も夕暮になるほどに、御かたはら寂しきにつけても、「いかなる中有の旅の空に、一人や闇に迷ふらむ」など、思し乱れたる心苦しさ、あはれに悲しなどいふも愚かなり。夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁(かりがね)を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。 | かくて日も夕暮になるほどに、御かたはら寂しきにつけても、「いかなる中有の旅の空に、一人や闇に迷ふらむ」など、思し乱れたる心苦しさ、あはれに悲しなどいふも愚かなり。夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁(かりがね)を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。 | ||
- | 蜀山といふ山険(さが)しくて、途絶へがちなる雲の架け橋歩み渡らせ給ふ御気色、よそにだになほ忍び難し。百官(もものつかさ)人数(ひとかず)衰へ、勢ひいかめしかりし旗などさへ、雨に濡れ、露にしほれて、その物とも見えず。御供にさぶらふ人々、何事につけても、物心細く思えて、鳥の声もせぬ深山に、仮の宮いとあやしきさまなり。月の影より他に光なき心地のみして、あるにもあらず、あさましきほどなれど、所につけたる住居(すまゐ)は、様変(さまかは)りて、かからぬ折ならば、をかしくもありぬべし。これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理(ことはり)なり。 | + | 蜀山といふ山険(さが)しくて、途絶へがちなる雲の架け橋歩み渡らせ給ふ御気色、よそにだになほ忍び難し。百官(もものつかさ)人数(ひとかず)衰へ、勢ひいかめしかりし旗などさへ、雨に濡れ、露にしほれて、その物とも見えず。御供にさぶらふ人々、何事につけても、物心細く思えて、鳥の声もせぬ深山に、仮の宮いとあやしきさまなり。月の影より他に光なき心地のみして、あるにもあらず、あさましきほどなれど、所につけたる住居は、様変りて、かからぬ折ならば、をかしくもありぬべし。これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理(ことはり)なり。 |
- | かかるほとに東宮((底本「春宮」))は譲(ゆづ)りを受けて位に即(つ)かせ給ひぬ。荒き心ある者を失ひぬ。世中((底本「世なる」。諸本により訂正))を静めて、太上天皇を迎へ取り奉らせ給ふ。「間近く内裏を並べて、よろづを申し合せつつ御政あるべし」と聞こえさせ給へど、この御物思ひのあまりにさるべきこととも思されず、世も平ぎ御心も静まりて後は、御歎きも分く方なく一筋になりぬ。 | + | かかるほとに東宮((底本「春宮」))は譲りを受けて位につかせ給ひぬ。荒き心ある者を失ひぬ。世中((底本「世なる」。諸本により訂正))を静めて、太上天皇を迎へ取り奉らせ給ふ。「間近く内裏を並べて、よろづを申し合せつつ御政あるべし」と聞こえさせ給へど、この御物思ひのあまりにさるべきこととも思されず、世も平ぎ御心も静まりて後は、御歎きも分く方なく一筋になりぬ。 |
時移り事終り、楽しび尽き悲しみ来る。池の蓮(はちす)夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。絶え入りぬべくぞ思しける。 | 時移り事終り、楽しび尽き悲しみ来る。池の蓮(はちす)夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。絶え入りぬべくぞ思しける。 | ||
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別れにし道のほとりに尋ね来てかへさは駒にまかせてぞ行く | 別れにし道のほとりに尋ね来てかへさは駒にまかせてぞ行く | ||
- | 春の風に花の開きたる朝(あした)、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面(おも)に咲き乱れ、色々の紅葉、階(はし)の上に散り積む。昔、楊貴妃の間近く仕へ給ひし女房など、月くまなき夜は、昔を恋ひ涙にむせびつつ、琴を調べ琵琶を弾きけるにも、いとど御袖の上、隙(ひま)なく見ゆる心苦しさ、よその袂(たもと)までもせきかぬる心地す。忘れてもまどろませ給ふ時なければ、夢の中(うち)にも逢ひ見給ふことはあり難し。夜の蟋蟀(きりぎりす)、枕にすだく声にも御涙勝り、夕べの蛍の汀(みぎは)に渡る思ひにも、御胸の苦しさ抑へ難し。壁に背けたる残りの灯火(ともしび)、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾(ふすま)むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。 | + | 春の風に花の開きたる朝(あした)、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面(おも)に咲き乱れ、色々の紅葉、階(はし)の上に散り積む。昔、楊貴妃の間近く仕へ給ひし女房など、月くまなき夜は、昔を恋ひ涙にむせびつつ、琴を調べ琵琶を弾きけるにも、いとど御袖の上、隙なく見ゆる心苦しさ、よその袂までもせきかぬる心地す。忘れてもまどろませ給ふ時なければ、夢のうちにも逢ひ見給ふことはあり難し。夜の蟋蟀(きりぎりす)、枕にすだく声にも御涙勝り、夕べの蛍の汀に渡る思ひにも、御胸の苦しさ抑へ難し。壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾(ふすま)むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。 |
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かくて二年(ふたとせ)ばかりにもなりぬるに、幻(まぼろし)といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。嬉しく思さるること限りなくて、御物思ひ、たちまちにおこたりぬ。 | かくて二年(ふたとせ)ばかりにもなりぬるに、幻(まぼろし)といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。嬉しく思さるること限りなくて、御物思ひ、たちまちにおこたりぬ。 | ||
- | 幻、空に昇り地に入りて、至らぬ所なく求むるに、そのしるしなし。雲に乗りつつ、なほ東ざまへ飛び行くに、わたつうみの中にいと高き山あり。その上に玉の台(うてな)、黄金の殿ども、軒(のき)を並べ、甍(いらか)を連ねたるよそほひ有様、すべてこの世のたぐひにあらず。また、その中(うち)に仙女あまた遊び戯ぶる。この所に行き向ひて、玉の戸ざしを打ち叩くに、言ひ知らずこの世ならぬ人出でて、幻に会へり。「楊貴妃の生まれ給へる蓬莱宮これなり」と言ふを聞くに、嬉しさ限りなくて、「唐の玄宗の御使ひなり」と聞こえさす。「楊貴妃、ただ今寝(ゐね)給へり。朝(あした)を待つべし」と言ひて返り入りぬる後、心もとなくて、一人立てり。夕べの嵐音なくて、波の上遥かに入り日さすほど、折からにや、あはれに心細くて、やうやう夜も半ば過ぐるほどに、花のとぼそに白露隙なく置けるを見るにも、 | + | 幻、空に昇り地に入りて、至らぬ所なく求むるに、そのしるしなし。雲に乗りつつ、なほ東ざまへ飛び行くに、わたつうみの中にいと高き山あり。その上に玉の台(うてな)、黄金の殿ども、軒を並べ、甍(いらか)を連ねたるよそほひ有様、すべてこの世のたぐひにあらず。また、そのうちに仙女あまた遊び戯ぶる。この所に行き向ひて、玉の戸ざしを打ち叩くに、言ひ知らずこの世ならぬ人出でて、幻に会へり。「楊貴妃の生まれ給へる蓬莱宮これなり」と言ふを聞くに、嬉しさ限りなくて、「唐の玄宗の御使ひなり」と聞こえさす。「楊貴妃、ただ今寝(ゐね)給へり。朝(あした)を待つべし」と言ひて返り入りぬる後、心もとなくて、一人立てり。夕べの嵐音なくて、波の上遥かに入り日さすほど、折からにや、あはれに心細くて、やうやう夜も半ば過ぐるほどに、花のとぼそに白露隙なく置けるを見るにも、 |
明けやらぬ花のとぼその露けさにあやなく袖のそぼちぬるかな | 明けやらぬ花のとぼその露けさにあやなく袖のそぼちぬるかな | ||
- | かかる程に、夜も明け日も出でぬれば、楊貴妃出で給へり。黄金の簪(かむざし)光鮮かに、玉の飾り目も輝くほどなり。幻にあひ向ひて、しばしは言葉に出だし給はず、まづ落つる涙をぞ所狭きに思さる。方士も袖の雫隙(ひま)なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙(たへ)なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。方士、御門の御心の中(うち)を知れりければ、ありのままに聞こえさせつ。 | + | かかる程に、夜も明け日も出でぬれば、楊貴妃出で給へり。黄金の簪(かむざし)光鮮かに、玉の飾り目も輝くほどなり。幻にあひ向ひて、しばしは言葉に出だし給はず、まづ落つる涙をぞ所狭きに思さる。方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙(たへ)なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。方士、御門の御心のうちを知れりければ、ありのままに聞こえさせつ。 |
- | 互ひに心のいぶせさをはるけて、方士、帰りなんとするに、楊貴妃、黄金の簪を折りつつ、「我が物とて御門に奉れ」と宣はす。方士、これを取りて、こと浅くや思ひけん、「黄金の簪は、たぐひなき物にもあらず。そのかみ、さだめて人知れぬ御契りありけんものを、願はくは承りて奏せしめん」と言ふに、楊貴妃、気色変り、涙まさりて、思し乱るる事ありと見ゆ。「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女(たなばた)・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心の中(うち)あらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨(はるあめ)おびたり。 | + | 互ひに心のいぶせさをはるけて、方士、帰りなんとするに、楊貴妃、黄金の簪を折りつつ、「我が物とて御門に奉れ」と宣はす。方士、これを取りて、こと浅くや思ひけん、「黄金の簪は、たぐひなき物にもあらず。そのかみ、さだめて人知れぬ御契りありけんものを、願はくは承りて奏せしめん」と言ふに、楊貴妃、気色変り、涙まさりて、思し乱るることありと見ゆ。「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女(たなばた)・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨(はるあめ)おびたり。 |
- | 光さす給の顔ばせしほたれてなほそのかみの心地こそすれ | + | 光さす玉のかほばせしほたれてなほそのかみの心地こそすれ |
- | 方士帰り参りてこのよしを奏せしむるに、御心日を経て悩みまさり給ひて、生まれ給はんほどをも心もとなくや思しけん、その年の夏四月に、みづからはかなくならせ給ひにけり。 | + | 方士帰り参りて、このよしを奏せしむるに、御心日を経て悩みまさり給ひて、生まれ給はんほどをも心もとなくや思しけん、その年の夏四月に、みづからはかなくならせ給ひにけり。 |
- | 知らざりし玉の台(うてな)を知り得てぞ夜半の煙(けぶり)と君もなりにし | + | 知らざりし玉の台(うてな)を知り得てぞ夜半の煙と君もなりにし |
- | これ一人君のみにあらず。人、生まれて木石ならねば、皆おのづから情けあり。いにしへより今に至るまで、高きも卑しきも、かしこきもはかなきも、この道に入らぬ人はなし。入りとし入りぬれば、迷はずといふことなし。しかし、ただ心を動かす色にあはざらんには、おほよそこの世は皆夢幻のごとし。八苦逃るることなければ、厭ひても厭ふべし。天上の楽しみ限りなけれども、五つの衰へさることなければ、願ふべきにも足らず、生まれてもよしなし。ただ、心一つにして三界を厭ひ、九品を願ふべし。極楽を願ふとも、この世に執を留めば、纜(ともづな)を解かで((底本、「とひて」とあり、「ひ」に「か歟」と傍書。傍書に従う。))舟を出ださんがごとし。極楽を願はずば、轅(ながえ)をそむきて車を走らしめんがごとし。 | + | これ一人君のみにあらず。人、生まれて木石ならねば、皆おのづから情けあり。いにしへより今に至るまで、高きも卑しきも、かしこきもはかなきも、この道に入らぬ人はなし。入りとし入りぬれば、迷はずといふことなし。しかし、ただ心を動かす色にあはざらんには、おほよそこの世は皆夢幻のごとし。八苦逃るることなければ、厭ひても厭ふべし。天上の楽しみ限りなけれども、五つの衰へ去ることなければ、願ふべきにも足らず、生まれてもよしなし。ただ、心一つにして三界を厭ひ、九品を願ふべし。極楽を願ふとも、この世に執を留めば、纜(ともづな)を解かで((底本、「とひて」とあり、「ひ」に「か歟」と傍書。傍書に従う。))舟を出ださんがごとし。極楽を願はずば、轅(ながえ)をそむきて車を走らしめんがごとし。 |
この世を厭ひ極楽を願はば、苦しみを集めたる海を渡りて、楽を極めたる国に至らんことは、疑ふべからず。ゆめゆめ、出で難き悪道に返らずして、行きやすき浄土に至るべし。 | この世を厭ひ極楽を願はば、苦しみを集めたる海を渡りて、楽を極めたる国に至らんことは、疑ふべからず。ゆめゆめ、出で難き悪道に返らずして、行きやすき浄土に至るべし。 |
text/kara/m_kara018.txt · 最終更新: 2014/11/30 02:35 by Satoshi Nakagawa