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唐物語

第18話 唐の玄宗と申しける御門の御時世の中めでたく治まりて・・・(楊貴妃)

校訂本文

1

昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天(あめ)の下穏(おだ)しきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。御門も、色にめで香(か)にのみ耽(ふけ)り給へる御心の暇(ひま)なさにや、よろづをば左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政(まつりごと)怠らせ給ひけり。

これより先に、元献皇后・武淑妃など聞こえ給ひし后、世に並びなく、御心ざし深くおはしましき。それはかなくならせ給ひて後は、あまたの中に御心かなひたる人おはせざりき。これにより、高力士に仰せられて、京(みやこ)の外まで尋ね求めさせ給ふに、楊家の娘を得給ひてけり。その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅(くれなゐ)の蓮(はちす)初めて開けたるにや」と見ゆ。一度(ひとたび)笑むに百(もも)の媚なりて、人の心惑ひぬべし。すべてこの世のたぐひにあらず。ただ天人などの、暫し天(あま)下れるとぞ見えける。

かかりければ、上、内裏の内にたちまちに出で湯を掘らせて、この人に浴(あむ)せ給ふ。湯より出でたる姿、まことに心苦しく、薄物の衣、なほ重げになむ見えける。色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄(ものがら)、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。上、これを見給ふ度(たび)に、嬉しく喜ばしく思さるることたぐひなし。ただ、みめ・形の人に優れ、為態(しわざ)・有様の世に並びなきのみにあらず。よろづにつきて暗からず、事に触れて情け深くなむものし給ひける。また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理(ことはり)と思へり。

同じ車一つ床(ゆか)にあらねば、行幸(みゆき)し、寝(い)ね給ふことなし。三千人の女御・后、我も我もとさぶらひ給へど、御目のつてにだにかけ給はず。ただこの人をのみぞ、月日にそへて、たぐひなきものに思しける。

驪山の宮に行幸し給ひて、霓裳羽衣の舞ひを奏せさせ給ふ。舞の袖、風に翻る度に、玉の飾り庭に落ち積りて、「極楽世界の瑠璃の地もかくやあらん」と思えたり。おほよそ驪山宮の秋の夕べに心をとめぬ人なし。春は春の遊びに従ひ、夜は夜の短かきことを歎き給ひける。

かくて、夜もすがら、ひめもすに時を分かず、これより他の御いとなみなかりければ、国の政の澄み濁れるを、いかにも知らせ給はざりけり。すべてこの楊貴妃のはぐくみによりて、世の苦しきことを忘れつつ、誇り驕れる人、その数を知らず。また天(あめ)の下の人、高きも卑しきも、「心に違はじ」と思へる気色なべてならず。見る人、聞く人、羨みめづるさま、言ひ尽すべからす。これによりて、女子(をんなご)を産める者は、喜びかしづきて、かかるたぐひを心にかけけるも、をこがましくこそ。

また、御門の御弟に寧王と申す人、御かたはらを離れず間近く床を並べて、夜昼を分かぬ御遊びにも、必ずさぶらひ給ひけり。この親王、瑠璃の玉の笛1)を帳(ちやう)の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過(あやま)てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。

これによりて、楊貴妃、痛み思す心や深かりけん。鬢(びむ)の髪、一房(ひとふさ)を切りて、御門2)に奉り給ふ。「我が身の肌(はだへ)、頭(かしら)の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。

初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女(たなばた)・彦星(ひこぼし)の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。「形は六の道に変るとも、逢ひ見んことは絶ゆる時3)あらじ」と契り給ひても、

  姿こそはかなき世々に変るとも契りは朽ちぬものとこそ聞け

などのたまひつつ、御手を取りかはして、涙を流し給ひけるを、末の世に聞く人さへ袖の上露けし。

2

かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人(せうと)にて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。その中に楊貴妃の養子、左大臣安禄山と聞こゆる人、勢ひを争ひて、心のうち憤り深けれども、これをあやむる人さらになし。これによりて、たちまちに兵(つはもの)十五万人集めて、つひに楊国忠を亡ぼすに、世の中乱れて騒ぎののしりあへり。

百敷(ももしき)の内までも、その恐れ深ければ、御門、外(ほか)へ逃げさせ給ふ。東宮4)・楊貴妃、御かたはらにさぶらひ給ふ。楊国忠・高力士・陳玄礼・韋見素、また御供にさぶらふ。かくて、蜀といふ国へ退き去らせ給ふに、「いかならむ野の末・山の中なりとも、この人だに二人あらば、生けらん限り思ふことあらじ」と思さるるに、人の気色、思はずに変りて、はしたなく見えければ、御門、怪しみ問はせ給ふ。

陳玄といふ人、東宮5)に申していはく、「はやく楊国忠、政事(まつりごと)を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。東宮6)、これを許し給ふにより、楊国忠、目の前にはかなくなりぬ。

御門7)、あさましくはかなく思されながら、この後行かんとし給ふに、兵ども、立ち廻りつつ、「なほ心よからぬ乱れの根やあらん」と申す気色ありけり。この時、上、楊貴妃の免(まぬが)るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。この世に楊貴妃、いかならん巌(いはほ)の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅(くれなゐ)よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液8)の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏(まつ)ひつつ、ついにはかなくなし奉る。物のあはれを知らぬ草木までも色変り、情けなき鳥・獣(けだもの)さへ涙を流せり。

  物事に変らぬ色ぞなかりける緑の空も四方(よも)の梢も

御ともにさぶらひける人、心あるも心なきも、猛(たけ)きも猛からぬも、涙におぼれて行き方もしらず。御門9)の御心のうちには、

  何せんに玉のうてなを磨きけん野辺こそつゆの宿りなりけれ

ただ御袖の下より、血の涙ぞ流れ出づる。

御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、糧(かて)に疲れて、御門10)に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。

3

かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟(はらから)11)にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木(いはき)ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。この御事を承はる者、皆涙を抑へて申していはく、「命の終らんまでは、ただ身に12)従ひ奉るべし」。

かくて日も夕暮になるほどに、御かたはら寂しきにつけても、「いかなる中有の旅の空に、一人や闇に迷ふらむ」など、思し乱れたる心苦しさ、あはれに悲しなどいふも愚かなり。夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁(かりがね)を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。

蜀山といふ山険(さが)しくて、途絶へがちなる雲の架け橋歩み渡らせ給ふ御気色、よそにだになほ忍び難し。百官(もものつかさ)人数(ひとかず)衰へ、勢ひいかめしかりし旗などさへ、雨に濡れ、露にしほれて、その物とも見えず。御供にさぶらふ人々、何事につけても、物心細く思えて、鳥の声もせぬ深山に、仮の宮いとあやしきさまなり。月の影より他に光なき心地のみして、あるにもあらず、あさましきほどなれど、所につけたる住居は、様変りて、かからぬ折ならば、をかしくもありぬべし。これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理(ことはり)なり。

かかるほとに東宮13)は譲りを受けて位につかせ給ひぬ。荒き心ある者を失ひぬ。世中14)を静めて、太上天皇を迎へ取り奉らせ給ふ。「間近く内裏を並べて、よろづを申し合せつつ御政あるべし」と聞こえさせ給へど、この御物思ひのあまりにさるべきこととも思されず、世も平ぎ御心も静まりて後は、御歎きも分く方なく一筋になりぬ。

時移り事終り、楽しび尽き悲しみ来る。池の蓮(はちす)夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。絶え入りぬべくぞ思しける。

  もろともに重ねし袖も朽ちはてていづれの野辺の露結ぶらん

かやうに思ひつつ、涙を抑へて帰らせ給ふ御有様の弱々しさも、言はば愚かになりぬべし。

  別れにし道のほとりに尋ね来てかへさは駒にまかせてぞ行く

春の風に花の開きたる朝(あした)、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面(おも)に咲き乱れ、色々の紅葉、階(はし)の上に散り積む。昔、楊貴妃の間近く仕へ給ひし女房など、月くまなき夜は、昔を恋ひ涙にむせびつつ、琴を調べ琵琶を弾きけるにも、いとど御袖の上、隙なく見ゆる心苦しさ、よその袂までもせきかぬる心地す。忘れてもまどろませ給ふ時なければ、夢のうちにも逢ひ見給ふことはあり難し。夜の蟋蟀(きりぎりす)、枕にすだく声にも御涙勝り、夕べの蛍の汀に渡る思ひにも、御胸の苦しさ抑へ難し。壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾(ふすま)むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。

4

かくて二年(ふたとせ)ばかりにもなりぬるに、幻(まぼろし)といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。嬉しく思さるること限りなくて、御物思ひ、たちまちにおこたりぬ。

幻、空に昇り地に入りて、至らぬ所なく求むるに、そのしるしなし。雲に乗りつつ、なほ東ざまへ飛び行くに、わたつうみの中にいと高き山あり。その上に玉の台(うてな)、黄金の殿ども、軒を並べ、甍(いらか)を連ねたるよそほひ有様、すべてこの世のたぐひにあらず。また、そのうちに仙女あまた遊び戯ぶる。この所に行き向ひて、玉の戸ざしを打ち叩くに、言ひ知らずこの世ならぬ人出でて、幻に会へり。「楊貴妃の生まれ給へる蓬莱宮これなり」と言ふを聞くに、嬉しさ限りなくて、「唐の玄宗の御使ひなり」と聞こえさす。「楊貴妃、ただ今寝(ゐね)給へり。朝(あした)を待つべし」と言ひて返り入りぬる後、心もとなくて、一人立てり。夕べの嵐音なくて、波の上遥かに入り日さすほど、折からにや、あはれに心細くて、やうやう夜も半ば過ぐるほどに、花のとぼそに白露隙なく置けるを見るにも、

  明けやらぬ花のとぼその露けさにあやなく袖のそぼちぬるかな

かかる程に、夜も明け日も出でぬれば、楊貴妃出で給へり。黄金の簪(かむざし)光鮮かに、玉の飾り目も輝くほどなり。幻にあひ向ひて、しばしは言葉に出だし給はず、まづ落つる涙をぞ所狭きに思さる。方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙(たへ)なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。方士、御門の御心のうちを知れりければ、ありのままに聞こえさせつ。

互ひに心のいぶせさをはるけて、方士、帰りなんとするに、楊貴妃、黄金の簪を折りつつ、「我が物とて御門に奉れ」と宣はす。方士、これを取りて、こと浅くや思ひけん、「黄金の簪は、たぐひなき物にもあらず。そのかみ、さだめて人知れぬ御契りありけんものを、願はくは承りて奏せしめん」と言ふに、楊貴妃、気色変り、涙まさりて、思し乱るることありと見ゆ。「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女(たなばた)・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨(はるあめ)おびたり。

  光さす玉のかほばせしほたれてなほそのかみの心地こそすれ

方士帰り参りて、このよしを奏せしむるに、御心日を経て悩みまさり給ひて、生まれ給はんほどをも心もとなくや思しけん、その年の夏四月に、みづからはかなくならせ給ひにけり。

  知らざりし玉の台(うてな)を知り得てぞ夜半の煙と君もなりにし

これ一人君のみにあらず。人、生まれて木石ならねば、皆おのづから情けあり。いにしへより今に至るまで、高きも卑しきも、かしこきもはかなきも、この道に入らぬ人はなし。入りとし入りぬれば、迷はずといふことなし。しかし、ただ心を動かす色にあはざらんには、おほよそこの世は皆夢幻のごとし。八苦逃るることなければ、厭ひても厭ふべし。天上の楽しみ限りなけれども、五つの衰へ去ることなければ、願ふべきにも足らず、生まれてもよしなし。ただ、心一つにして三界を厭ひ、九品を願ふべし。極楽を願ふとも、この世に執を留めば、纜(ともづな)を解かで15)舟を出ださんがごとし。極楽を願はずば、轅(ながえ)をそむきて車を走らしめんがごとし。

この世を厭ひ極楽を願はば、苦しみを集めたる海を渡りて、楽を極めたる国に至らんことは、疑ふべからず。ゆめゆめ、出で難き悪道に返らずして、行きやすき浄土に至るべし。

翻刻

むかし唐玄宗と申ける御門の御時世中め
てたくおさまりてふく風も枝をならさす
ふる雨も時をたかへさりけれはみな人あめのし
たおたしきにほこりて花をおしみ月を/m364
もてあそふよりほかのいとなみなし御門も色
にめてかにのみふけり給へる御心のひまなさに
やよろつをは左大臣ときこゆる人にまかせて
やうやくみつからのまつりことをこたらせ給
けりこれよりさきに元献(ケンケン)皇后武淑妃(フシクヒ)なと
きこえたまひしきさき世にならひなく御
心さしふかくおはしましきそれはかなく
ならせ給てのちはあまたのなかに御心か
なひたる人おはせさりきこれにより高力士(カウリヨクシ)に
おほせられてみやこの外まてたつねもと/m365
めさせ給に楊家のむすめをえ給てけりそ
のかたち秋月の山のはよりたかくのほる心ち
してそのいきさしは夏のいけにくれなゐ
のはちすはしめてひらけたるにやと見
ゆひとたひゑむにももの媚なりて人の
心まとひぬへしすへてこの世のたくひに
あらすたた天人なとのしはしあまくたれると
そみえけるかかりけれはうへ内裏のうちにた
ちまちにいてゆをほらせてこの人にあむ
せ給ゆよりいてたるすかたまことに心くるし/m366
くうす物のころもなををもけになむみえ
ける色さしあゆみいてたまへる気色かなひ
たる物からけたかくあひあひしくてさすか又
おもふ所ある様にふるまひたまへりうへこれを見
給たひにうれしくよろこはしくおほさるる事
たくひなしたたみめかたちの人にすくれしわさ
ありさまの世にならひなきのみにあらすよ
ろつにつきてくらからすことにふれてな
さけふかくなむものし給ける又うへの御心
のうちにおほせる事をはさなからそらに/m367
しりてふるまひけれはかきりなき御心
さしをもよの人ことはりとおもへりおなし
くるまひとつゆかにあらねはみゆきしいね
給事なし三千人の女御きさき我も我もと
さふらひ給へと御めのつてにたにかけ給
はすたたこの人をのみそ月日にそへてたく
ひなきものにおほしける驪山のみやに
みゆきし給て霓裳羽衣のまひをそ
うせさせたまふまひの袖風にひるかへる
たひにたまのかさりにはにおちつもりて/m368
極楽世界のるりの地もかくやあらんとおほ
へたりおほよそ驪山宮の秋のゆふへに心
をとめぬ人なし春ははるのあそひにした
かひ夜は夜のみしかき事をなけき給ける
かくてよもすからひめもすに時をわか
すこれよりほかの御いとなみなかりけれ
は国のまつりことのすみにこれるをいか
にもしらせたまはさりけりすへてこの楊
貴妃のはくくみによりて世のくるしきこと
をわすれつつほこりをこれる人そのかす/m369
をしらすまたあめのしたのひとたかきも
いやしきも心にたかはしとおもへる気色
なへてならす見る人きくひとうらやみめ
つるさまいひつくすへからすこれによりて
をんなこをうめるものはよろこひかしつきて
かかるたくひを心にかけけるもおこかましくこそ
又御門の御おとうとに寧王と申人御かたはら
をはなれすまちかくゆかをならへてよるひ
るをわかぬ御あそひにもかならすさふら
ひ給けりこの親王瑠璃のたまのふみをちやう/m370
のうちにかくしをかせ給へりけるを楊貴妃な
にとなくふきならしたまふ御門これを御
覧しつけてたまのふえはあるしにあらすし
てふく事なししかるを心さしのをもきに
ほこりて礼をあやまてりことのみたれには
あらすやとことのほかに御気色かはりにけり
これによりて楊貴妃いたみおほす心やふ
かかりけんひむのかみ一ふさをきりて帝に
たてまつり給我身のはたへかしらのかみな
らすはみなこれ君のたま物にあらすやし/m371
かるを我いま御心にそむきぬれはつみに
ふしてをこたりを申へしとなくなくきこえ
させ給に御つかひもいとはしたなきまて
おほえつつこのよしを奏するに御こころもあ
はて物もおほえさせ給わすなから時のまに
めしかへして世になをたくひなくもある
心はせかなとおほしつつくるに御心さしのふ
かさ日ころにはすきにけりはつ秋の七日
のゆふへ驪山宮にみゆきし給てたな
はたひこほしのたえぬ契をうらやみは/m372
かなきこの世のわかれやすき事をそかね
てなけき給けるかたちは六のみちにかはると
もあひみんことはたゆる事(傍書「時」)あらしと契給ても
  すかたこそはかなき世々にかはるとも
  ちきりはくちぬものとこそきけ
なとの給つつ御てをとりかはして涙をなかし
給けるをすゑの世にきく人さへ袖のうへ露
けしかくてとし月をおくらせ給に右大臣楊
国忠楊貴妃のせうとにて世のまつりこ
とをとれりけれとひとの心にそむく事お/m373
ほくつもりにけれは世中いきとをりふかく
なりぬそのなかに楊貴妃の養子左大臣安
禄山ときこゆる人いきおひをあらそひて心の
うちいきとをりふかけれともこれをあやむ
る人さらになしこれによりてたちまちに
つはもの拾五万人あつめてつゐに楊国忠を
ほろほすに世中みたれてさはきののし
りあへりももしきのうちまてもそ
のおそれふかけれは御門ほかへにけさせ給春
宮楊貴妃御方はらにさふらひ給楊国忠/m374
高力士陳玄礼(チンケンレイ)韋見素(イケンソ)また御と
もに候かくて蜀といふ国へしりそ
きさらせたまふにいかならむ野のす
ゑ山のなかなりともこのひとたに
ふたりあらはいけらんかきりお
もふ事あらしとおほさるるに
ひとの気色おもわすにかはり
てはしたなくみえけれは御門あ
やしみとはせたまふ陳玄といふ
ひと春宮に申ていはくはやく楊/m375
国忠まつり事をみたりひとの
こころをやふるゆへに君もけふこの
事にあはせたまふしかしたた
やうこくちうをうしなひてひと
のうれへをやすめんにはときこえ
さす春宮これをゆるしたまふに
より楊国忠目のまへにはかなくな
りぬ帝あさましくはかなくおほ
されなからこののちゆかんとし給
につはものともたちまはりつつ猶/m376
こころよからぬみたれのねやあらんと申気
色ありけりこのときうへ楊貴妃のまぬ
かるましき事をしらせ給にけ
れは御かほに袖をおほひてともかくも
きこえさする事なしこの世に
楊貴妃いかならんいはほのなかなりと
もおほつかなからぬ御すまひなら
はいと心くるしからすおほしけるにおもひのほか
にいのちもたえぬへきにやとあさからぬわかれの涙
ちしほのくれなゐよりも色ふかくてせんかた/m377
なくみえなから猶御門に目をかけたてまつりてかく
れさせ給てかへり見給へる御ありさまなににたと
ふへしともみえすなてしこの露にぬれたるよ
りもらうたくあをやきの風にしたかへるより
もなよらかに大液(タイエキ)の芙蓉(フヤウ)未央(ミアウ)のやなきにかよ
ひたまへるをしもなさけなくみちのほとりの
てらの中にしてねりたるきぬを御くひにひ
きまつひつつついにはかなくなしたてまつ
る物のあはれをしらぬ草木まても色かはりな
さけなきとりけた物さへ涙をなかせり/m378
  ものことにかはらぬいろそなかりける
  みとりの空もよものこすゑも
御ともに侍ける人心あるも心なきもたけきもた
けからぬも涙にをほれてゆきかたもしら
す常の御心のうちには
  なにせんにたまのうてなをみかきけん
  野辺こそつゆのやとりなりけれ
たた御袖のしたよりちの涙そなかれいつる
御こころまよひにやむまのうへあやうくみえ
させ給へは人々うらうへにそひたてまつりてやうやう/m379
ゆかせ給につは者供かてにつかれて帝にしたかひ
たてまつらんこと二心なきにあらねは陳玄
礼もととむへき心地せすかかるほとに益州(エキシウ)と
いふ国よりみつき物かすしらすはこへりけるを
御前につみをかせてさふらふ人々にわかちた
まはせてのたまはく我まつりことのすみにこ
れるをしらさりしよりこのみたれにあへり我
身ひとつによりてさりかたきおやはらかにも
わかれ二なきいのちをもすててなをわれにし
たかへりわれ又いはきならねはむくふこころ/m380
あさからむやはやくこの物をたまふてをのをの
ふるさとへかへりねとのたまはする御袖の
うへ秋のくさ葉よりもつゆけくみゆこの
御事をうけたまはるものみな涙をおさへて申て
いわくいのちのをはらんまてはたた身にしたかひた
てまつるへしかくて日もゆふくれになるほと
に御かたはらさひしきにつけてもいかなる
中有のたひのそらにひとりややみにまよふ
らむなとおほしみたれたる心くるしさあ
はれにかなしなといふもをろかなり夜もやうやう/m381
あけかたになりぬれはいてゆかせ給にありあけ
の月にしにかたふく程雲ゐはるかにな
きわたるかりかねをきかせ給にも御心
のうちかきくらされていつかたへゆくともおほされ
す蜀山といふ山さかしくてとたへかちなる雲の
かけはしあゆみわたらせ給御気色よそに
たになを忍かたしもものつかさ人かすおとろへ
いきおひいかめしかりしはたなとさへ雨にぬれ露
にしほれてその物ともみえす御ともに候人々
なにことにつけても物心ほそくおほえてとりの/m382
声もせぬ深山にかりの宮いと怪しきさ
まなり月のかけよりほかにひかりなき心
ちのみして有にもあらすあさましきほと
なれとところにつけたるすまゐはさまか
はりてかからぬおりならはおかしくもあ
りぬへしこれにつけても九重のにし
きの帳のうちのたまもののうへにまくらを
ならへ衣をへたてさりしむかしは我何事を
おもひけんなとおほされけるもまことにことはり
なりかかるほとに春宮はゆつりをうけて位に/m383
つかせ給ひぬあらき心あるものを失ぬ世なるを
しつめて太上天皇をむかへとりたてまつら
せ給まちかく内裏をならへて萬を申合
つつ御政あるへしと聞させ給へとこの御
物おもひのあまりにさるへき事ともおほさ
れす世も平き御心もしつまりて後は御な
けきもわくかたなく一すちになりぬとき
うつり事をはりたのしひつきかなしみきた
るいけのはちすなつひらけ庭の木のは
秋ちれることに御心のなくさめかたさたく/m384
ひなくおほされける時ははかなく別にしのへに
行幸せさせ給ひけれとあさちか原に風うち
ふきて夕の霧玉とちるを御覧しても
きえなて名残か有へきたえ入ぬへくそおほしける
  もろともにかさねし袖もくちはてて
  いつれののへのつゆむすふらん
かやうにおもひつつなみたをおさへてかへらせ給
ふ御ありさまのよはよはしさもいははおろかに
なりぬへし
  わかれにしみちのほとりに尋きて/m385
  かへさはこまにまかせてそゆく
春の風に花のひらきたるあした秋の雨に木
のはちる夕宮のうちあれさひしくてさまさま
の草のはな庭のおもにさきみたれいろいろの
紅葉はしのうへに散積昔楊貴妃のまちかく
つかへ給ひし女房なと月くまなき夜は
むかしをこひなみたにむせひつつことをしらへ
ひわをひきけるにもいとと御袖のうへひま
なくみゆるこころくるしさよそのたもと
まてもせきかぬるここ地すわすれても/m386
まとろませ給時なけれはゆめのうちにもあひ
見たまふ事はありかたしよるのきりきりすま
くらにすたくこゑにも御涙まさりゆふへのほ
たるのみきはにわたるおもひにも御むねのく
るしさをさへかたしかへにそむけたるのこりの
ともし火ひかりかすかにてあさゆふもろ
ともにおきふし給ひしとこのうへもちりつ
もりつつふるき枕ふるきふすまむなし
くて御かたはらにあれともたれとともにか
御身にもふれさせ給へきかくて二とせは/m387
かりにもなりぬるにまほろしといふ仙人
まいりて我君の御心に楊貴妃をおほせること
のかきりなきそこをしれり六の道おほ
つかなき所なしねかはくはむまれたまひつらん
所をたつねみてかへりまいらんときこえさする
うれしくおほさるる事かきりなくて御物
おもひたちまちにをこたりぬまほろしそ
らにのほりちにいりていたらぬ所なくもとむる
にそのしるしなし雲にのりつつなを東さまへ
とひ行にわたつうみのなかにいとたかき山あり/m388
そのうへにたまのうてなこかねの殿とものきを
ならへいらかをつらねたるよそほひありさますへ
てこの世のたくひにあらす又そのうちに仙女あま
たあそひたはふるこの所に行むかひてたまのと
さしをうちたたくにいひしらすこの世なら
ぬ人いててまほろしにあへり楊貴妃のむまれ
給へる蓬莱宮これなりといふをきくにう
れしさかきりなくて唐の玄宗の御つかひ也
ときこえさす楊貴妃たたいまゐねたまへ
りあしたをまつへしといひてかへり入ぬるのち/m389
心もとなくてひとりたてりゆふへのあらしを
となくてなみのうへはるかにいりひさすほと
おりからにやあはれに心ほそくてやうやう夜も
なかはすくる程に花のとほそに白露ひ
まなくをけるをみるにも
  あけやらぬはなのとほその露けさに
  あやなく袖のそほちぬるかな
かかる程に夜もあけ日もいてぬれは楊貴妃いて
給へりこかねのかむさしひかりあさやかにたまの
かさりめもかかやくほと也まほろしにあひむかひ/m390
てしはしはこと葉にいたし給はすまつおつる
なみたをそ所せきにおほさる方士もそての
しつくひまなくてややひさしくなる程に
楊貴妃のたまはく天宝十四年よりこのかた
御心のうちをおもひやるになやましくくるし
きことかきりなしかはかりたえなる所にむま
れたれと契のふかきによりて我うきなを
とめしふるさとのみ心にかかれるなとさまさま
にのたまはするありさまなを霓裳羽衣
のまひにそにたまへる方士御門の御心の/m391
うちをしれりけれはありのままにきこえさ
せつたかひに心のいふせさをはるけて方士かへり
なんとするに楊貴妃こかねのかんさしををり
つつ我物とてみかとにたてまつれとのたまはす
方士これをとりてことあさくやおもひけんこかね
のかんさしはたくひなき物にもあらすその
かみさためてひとしれぬ御契ありけんものを
ねかはくはうけたまはりて奏せしめんといふ
に楊貴妃気色かはりなみたまさりておほ
しみたるる事ありとみゆむかし天宝十年/m392
の秋驪山宮に侍し時たなはたひこほしあひ
みるゆふへ長生殿のうちおとなくてよはの
気色ものあはれなりしに御門我にたちそひ
ての給き天にあらははねをかはすとりと
なり地にあらは枝をかはす木とならんとこれ
君よりほかに又しる人なしこの契かきりなき
によりてかならす下界におちてさためて
二たひあひみてむつましきことふるきかこ
とくならむ我このことをかねてしれりおもへは
しかもかなしくて思へはまたうれしからすや/m393
なときこえさせ給御ありさまにも忍かたき
御心のうちあらはれて馬嵬のみちのほとり
にいまはかきりとみえ給しゆふへのうらみも
なをたたいまのやうにおほせる気色まことに
梨花一枝はるあめをひたり
  ひかりさすたまのかほはせしほたれて
  猶そのかみの心地こそすれ
方士かへりまいりてこのよしを奏せしむるに
御心日をへてなやみまさり給てむまれ給はん
程をも心もとなくやおほしけんそのとしの夏四/m394
月にみつからはかなくならせ給にけり
  しらさりしたまのうてなをしりえてそ
  よはのけふりと君もなりにし
これひとりきみのみにあらす人むまれて木石
ならねはみなをのつからなさけありいにしへ
よりいまにいたるまてたかきもいやしきも
かしこきもはかなきもこのみちにいらぬ人は
なしいりとしいりぬれはまよはすといふ事なし
しかしただこころをうこかす色にあはさらんには
おほよそこの世はみなゆめまほろしのことし/m395
八苦のかるる事なけれはいとひてもいとふへし
天上のたのしみかきりなけれともいつつのおと
ろへさる事なけれはねかふへきにもたらすむ
まれてもよしなしたた心一にして三界
をいとひ九品をねかふへし極楽をねかふ
ともこの世に執をととめはともつなを
とひ(か歟)てふねをいたさんかことし極楽をねか
はすはなかえをそむきて車をはしら
しめんかことしこの世をいとひ極楽をね
かははくるしみをあつめたるうみをわたりて/m396
楽をきはめたるくににいたらん事はうたかふ
へからすゆめゆめいてかたき悪道にかへらすし
てゆきやすき浄土にいたるへし/m397
1)
底本「ふみ」。諸本により訂正
2) , 7) , 10)
底本「帝」
3)
底本、「事」で「時」と傍書。
4) , 5) , 6) , 13)
底本「春宮」
8)
底本「大液」
9)
底本「常」。諸本「帝」に従う。
11)
底本「はらか」。諸本により補う
12)
「君に」か
14)
底本「世なる」。諸本により訂正
15)
底本、「とひて」とあり、「ひ」に「か歟」と傍書。傍書に従う。
text/kara/m_kara018.txt · 最終更新: 2014/11/30 02:35 by Satoshi Nakagawa