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text:kara:m_kara018 [2014/11/29 18:13] – 作成 Satoshi Nakagawatext:kara:m_kara018 [2014/11/30 02:27] – [3] Satoshi Nakagawa
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 ==== 1 ==== ==== 1 ====
-昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天(あめ)の下穏(おだ)しきに誇りて、花を惜しみ、月を弄(もてあそ)ぶより他のいとなみなし。御門も、色にめで香(か)にのみ耽(ふけ)り給へる御心の暇(ひま)なさにや、よろづを左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政(まつりごと)怠らせ給ひけり。+昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天(あめ)の下穏(おだ)しきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。御門も、色にめで香(か)にのみ耽(ふけ)り給へる御心の暇(ひま)なさにや、よろづを左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政(まつりごと)怠らせ給ひけり。
  
-これより先に、元献皇后・武淑妃など聞こえ給ひし后、世に並びなく、御心ざし深くおはしましき。それはかなくならせ給ひて後は、あまたの中に御心かなひたる人おはせざりき。これにより、高力士に仰せられて、京(みやこ)の外ま尋ね求めさせ給ふに、楊家の娘を得給ひてけり。その形、秋月の山の端(は)はより高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅(くれなゐ)の蓮(はちす)初めて開けたるにや」と見ゆ。一度(ひとたび)笑むに百(もも)の媚なりて、人の心惑ひぬべし。すべてこの世のたぐひにあらず。ただ天人などの暫し天(あま)下れるとぞ見えける。+これより先に、元献皇后・武淑妃など聞こえ給ひし后、世に並びなく、御心ざし深くおはしましき。それはかなくならせ給ひて後は、あまたの中に御心かなひたる人おはせざりき。これにより、高力士に仰せられて、京(みやこ)の外ま尋ね求めさせ給ふに、楊家の娘を得給ひてけり。その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅(くれなゐ)の蓮(はちす)初めて開けたるにや」と見ゆ。一度(ひとたび)笑むに百(もも)の媚なりて、人の心惑ひぬべし。すべてこの世のたぐひにあらず。ただ天人などの暫し天(あま)下れるとぞ見えける。
  
-かかりければ、上、内裏の内にたちまちに出で湯を掘らせて、この人に浴(あむ)せ給ふ。湯より出でたる姿、まことに心苦しく、薄物の衣(ころも)、なほ重げになむ見えける。色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄(ものがら)、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。上、これを見給ふ度(たび)に、嬉しく喜ばしく思さるることたぐひなし。ただ、みめ・形の人に優れ、為態(しわざ)・有様の世に並びなきのみにあらず。よ +かかりければ、上、内裏の内にたちまちに出で湯を掘らせて、この人に浴(あむ)せ給ふ。湯より出でたる姿、まことに心苦しく、薄物の衣、なほ重げになむ見えける。色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄(ものがら)、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。上、これを見給ふ度(たび)に、嬉しく喜ばしく思さるることたぐひなし。ただ、みめ・形の人に優れ、為態(しわざ)・有様の世に並びなきのみにあらず。よろづにつきて暗からず、事に触れて情け深くなむものし給ひける。また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理(ことはり)と思へり。
-ろづにつきて暗からず、事に触れて情け深くなむものし給ひける。また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理(ことはり)と思へり。+
  
-同じ車一つ床(ゆか)にあらねば、行幸(みゆき)し、寝(い)ね給ふことなし。三千人の女御・后(きさき)、我も我もとさぶらひ給へど、御目のつてにだにかけ給はず。ただこの人をのみぞ、月日にそへて、たぐひなきものに思しける。+同じ車一つ床(ゆか)にあらねば、行幸(みゆき)し、寝(い)ね給ふことなし。三千人の女御・后、我も我もとさぶらひ給へど、御目のつてにだにかけ給はず。ただこの人をのみぞ、月日にそへて、たぐひなきものに思しける。
  
-驪山の宮に行幸し給ひて、霓裳羽衣の舞ひを奏せさせ給ふ。舞の袖、風に翻(ひるがへ)る度に、玉の飾り庭に落ち積りて、「極楽世界の瑠璃の地もかくやあらん」と思えたり。おほよそ驪山宮の秋の夕べに心をとめぬ人なし。春は春の遊びに従ひ、夜は夜の短かきことを歎き給ひける。+驪山の宮に行幸し給ひて、霓裳羽衣の舞ひを奏せさせ給ふ。舞の袖、風に翻る度に、玉の飾り庭に落ち積りて、「極楽世界の瑠璃の地もかくやあらん」と思えたり。おほよそ驪山宮の秋の夕べに心をとめぬ人なし。春は春の遊びに従ひ、夜は夜の短かきことを歎き給ひける。
  
-かくて、夜もすがら、ひめもすに時を分かず、これより他の御いとなみなかりければ、国の政(まつりごと)の澄み濁れるを、いかにも知らせ給はざりけり。すべてこの楊貴妃のはぐくみによりて、世の苦しきことを忘れつつ、誇り驕れる人、その数を知らず。また天(あめ)の下の人、高きも卑しきも、「心に違はじ」と思へる気色なべてならず。見る人、聞く人、羨みめづるさま、言ひ尽すべからす。これによりて、女子(をんなご)を産める者は、喜びかしづきて、かかるたぐひを心にかけけるも、をこがましくこそ。+かくて、夜もすがら、ひめもすに時を分かず、これより他の御いとなみなかりければ、国の政の澄み濁れるを、いかにも知らせ給はざりけり。すべてこの楊貴妃のはぐくみによりて、世の苦しきことを忘れつつ、誇り驕れる人、その数を知らず。また天(あめ)の下の人、高きも卑しきも、「心に違はじ」と思へる気色なべてならず。見る人、聞く人、羨みめづるさま、言ひ尽すべからす。これによりて、女子(をんなご)を産める者は、喜びかしづきて、かかるたぐひを心にかけけるも、をこがましくこそ。
  
 また、御門の御弟に寧王と申す人、御かたはらを離れず間近く床を並べて、夜昼を分かぬ御遊びにも、必ずさぶらひ給ひけり。この親王、瑠璃の玉の笛((底本「ふみ」。諸本により訂正))を帳(ちやう)の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過(あやま)てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。 また、御門の御弟に寧王と申す人、御かたはらを離れず間近く床を並べて、夜昼を分かぬ御遊びにも、必ずさぶらひ給ひけり。この親王、瑠璃の玉の笛((底本「ふみ」。諸本により訂正))を帳(ちやう)の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過(あやま)てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。
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 これによりて、楊貴妃、痛み思す心や深かりけん。鬢(びむ)の髪、一房(ひとふさ)を切りて、御門((底本「帝」))に奉り給ふ。「我が身の肌(はだへ)、頭(かしら)の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。 これによりて、楊貴妃、痛み思す心や深かりけん。鬢(びむ)の髪、一房(ひとふさ)を切りて、御門((底本「帝」))に奉り給ふ。「我が身の肌(はだへ)、頭(かしら)の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。
  
-初秋(はつあき)の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女(たなばた)・彦星(ひこぼし)の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。「形は六の道に変るとも、逢ひ見んことは絶ゆる時((底本、「事」で「時」と傍書。))あらじ」と契り給ひても、+初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女(たなばた)・彦星(ひこぼし)の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。「形は六の道に変るとも、逢ひ見んことは絶ゆる時((底本、「事」で「時」と傍書。))あらじ」と契り給ひても、
  
   姿こそはかなき世々に変るとも契りは朽ちぬものとこそ聞け   姿こそはかなき世々に変るとも契りは朽ちぬものとこそ聞け
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-かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人(せうと)にて世の政(まつりごと)を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。その中に楊貴妃の養子、左大臣安禄山と聞こゆる人、勢ひを争ひて、心の中(うち)憤り深けれども、これをあやむる人さらになし。これによりて、たちまちに兵(つはもの)十五万人集めて、つひに楊国忠を亡ぼすに、世の中乱れて騒ぎののしりあへり。+かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人(せうと)にて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。その中に楊貴妃の養子、左大臣安禄山と聞こゆる人、勢ひを争ひて、心のうち憤り深けれども、これをあやむる人さらになし。これによりて、たちまちに兵(つはもの)十五万人集めて、つひに楊国忠を亡ぼすに、世の中乱れて騒ぎののしりあへり。
  
 百敷(ももしき)の内までも、その恐れ深ければ、御門、外(ほか)へ逃げさせ給ふ。東宮((底本「春宮」))・楊貴妃、御かたはらにさぶらひ給ふ。楊国忠・高力士・陳玄礼・韋見素、また御供にさぶらふ。かくて、蜀といふ国へ退き去らせ給ふに、「いかならむ野の末・山の中なりとも、この人だに二人あらば、生けらん限り思ふことあらじ」と思さるるに、人の気色、思はずに変りて、はしたなく見えければ、御門、怪しみ問はせ給ふ。 百敷(ももしき)の内までも、その恐れ深ければ、御門、外(ほか)へ逃げさせ給ふ。東宮((底本「春宮」))・楊貴妃、御かたはらにさぶらひ給ふ。楊国忠・高力士・陳玄礼・韋見素、また御供にさぶらふ。かくて、蜀といふ国へ退き去らせ給ふに、「いかならむ野の末・山の中なりとも、この人だに二人あらば、生けらん限り思ふことあらじ」と思さるるに、人の気色、思はずに変りて、はしたなく見えければ、御門、怪しみ問はせ給ふ。
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 陳玄といふ人、東宮((底本「春宮」))に申していはく、「はやく楊国忠、政事(まつりごと)を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。東宮((底本「春宮」))、これを許し給ふにより、楊国忠、目の前にはかなくなりぬ。 陳玄といふ人、東宮((底本「春宮」))に申していはく、「はやく楊国忠、政事(まつりごと)を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。東宮((底本「春宮」))、これを許し給ふにより、楊国忠、目の前にはかなくなりぬ。
  
-御門((底本「帝」))、あさましくはかなく思されながら、この後行かんとし給ふに、兵(つはもの)ども、立ち廻りつつ、「なほ心よからぬ乱れの根やあらん」と申す気色ありけり。この時、上、楊貴妃の免(まぬが)るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。この世に楊貴妃、いかならん巌(いはほ)の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅(くれなゐ)よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液((底本「大液」))の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏(まつ)ひつつ、ついにはかなくなし奉る。物のあはれを知らぬ草木までも色変り、情けなき鳥・獣(けだもの)さへ涙を流せり。+御門((底本「帝」))、あさましくはかなく思されながら、この後行かんとし給ふに、兵ども、立ち廻りつつ、「なほ心よからぬ乱れの根やあらん」と申す気色ありけり。この時、上、楊貴妃の免(まぬが)るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。この世に楊貴妃、いかならん巌(いはほ)の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅(くれなゐ)よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液((底本「大液」))の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏(まつ)ひつつ、ついにはかなくなし奉る。物のあはれを知らぬ草木までも色変り、情けなき鳥・獣(けだもの)さへ涙を流せり。
  
   物事に変らぬ色ぞなかりける緑の空も四方(よも)の梢も   物事に変らぬ色ぞなかりける緑の空も四方(よも)の梢も
  
-御ともにさぶらひける人、心あるも心なきも、猛(たけ)きも猛からぬも、涙におぼれて行き方もしらず。御門((底本「常」。諸本「帝」に従う。))の御心の中(うち)には、+御ともにさぶらひける人、心あるも心なきも、猛(たけ)きも猛からぬも、涙におぼれて行き方もしらず。御門((底本「常」。諸本「帝」に従う。))の御心のうちには、
  
   何せんに玉のうてなを磨きけん野辺こそつゆの宿りなりけれ   何せんに玉のうてなを磨きけん野辺こそつゆの宿りなりけれ
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 ただ御袖の下より、血の涙ぞ流れ出づる。 ただ御袖の下より、血の涙ぞ流れ出づる。
  
-御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵(つはもの)ども、糧(かて)に疲れて、御門((底本「帝」))に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。+御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、糧(かて)に疲れて、御門((底本「帝」))に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。
  
 ==== 3 ==== ==== 3 ====
  
-かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟(はらから)((底本「はらか」。諸本により補う))にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木(いはき)ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。この御事を承はる者、皆涙を抑へて申していはく、「命の終らんまでは、ただ身に((「君に」か))従ひ奉るべし」。+かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟(はらから)((底本「はらか」。諸本により補う))にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木(いはき)ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。この御事を承はる者、皆涙を抑へて申していはく、「命の終らんまでは、ただ身に((「君に」か))従ひ奉るべし」。
  
-かくて日も夕暮になるほどに、御かたはら寂しきにつけても、「いかなる中有の旅の空に、一人や闇に迷ふらむ」など、思し乱れたる心苦しさ、あはれに悲しなどいふも愚かなり。夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾(かたぶ)くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁(かりがね)を聞かせ給ふにも、御心の、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。+かくて日も夕暮になるほどに、御かたはら寂しきにつけても、「いかなる中有の旅の空に、一人や闇に迷ふらむ」など、思し乱れたる心苦しさ、あはれに悲しなどいふも愚かなり。夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁(かりがね)を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。
  
-蜀山といふ山険(さが)しくて、途絶へがちなる雲の架け橋歩み渡らせ給ふ御気色、よそにだになほ忍び難し。百官(もものつかさ)人数(ひとかず)衰へ、勢ひいかめしかりし旗などさへ、雨に濡れ、露にしほれて、その物とも見えず。御供にさぶらふ人々、何事につけても、物心細く思えて、鳥の声もせぬ深山に、仮の宮いとあやしきさまなり。月の影より他に光なき心地のみして、あるにもあらず、あさましきほどなれど、所につけたる住居(すまゐ)は、様変(さまかは)りて、かからぬ折ならば、をかしくもありぬべし。これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理(ことはり)なり。+蜀山といふ山険(さが)しくて、途絶へがちなる雲の架け橋歩み渡らせ給ふ御気色、よそにだになほ忍び難し。百官(もものつかさ)人数(ひとかず)衰へ、勢ひいかめしかりし旗などさへ、雨に濡れ、露にしほれて、その物とも見えず。御供にさぶらふ人々、何事につけても、物心細く思えて、鳥の声もせぬ深山に、仮の宮いとあやしきさまなり。月の影より他に光なき心地のみして、あるにもあらず、あさましきほどなれど、所につけたる住居は、様変りて、かからぬ折ならば、をかしくもありぬべし。これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理(ことはり)なり。
  
-かかるほとに東宮((底本「春宮」))は譲(ゆづ)りを受けて位に即()かせ給ひぬ。荒き心ある者を失ひぬ。世中((底本「世なる」。諸本により訂正))を静めて、太上天皇を迎へ取り奉らせ給ふ。「間近く内裏を並べて、よろづを申し合せつつ御政あるべし」と聞こえさせ給へど、この御物思ひのあまりにさるべきこととも思されず、世も平ぎ御心も静まりて後は、御歎きも分く方なく一筋になりぬ。+かかるほとに東宮((底本「春宮」))は譲りを受けて位につかせ給ひぬ。荒き心ある者を失ひぬ。世中((底本「世なる」。諸本により訂正))を静めて、太上天皇を迎へ取り奉らせ給ふ。「間近く内裏を並べて、よろづを申し合せつつ御政あるべし」と聞こえさせ給へど、この御物思ひのあまりにさるべきこととも思されず、世も平ぎ御心も静まりて後は、御歎きも分く方なく一筋になりぬ。
  
 時移り事終り、楽しび尽き悲しみ来る。池の蓮(はちす)夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。絶え入りぬべくぞ思しける。 時移り事終り、楽しび尽き悲しみ来る。池の蓮(はちす)夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。絶え入りぬべくぞ思しける。
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   別れにし道のほとりに尋ね来てかへさは駒にまかせてぞ行く   別れにし道のほとりに尋ね来てかへさは駒にまかせてぞ行く
  
-春の風に花の開きたる朝(あした)、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面(おも)に咲き乱れ、色々の紅葉、階(はし)の上に散り積む。昔、楊貴妃の間近く仕へ給ひし女房など、月くまなき夜は、昔を恋ひ涙にむせびつつ、琴を調べ琵琶を弾きけるにも、いとど御袖の上、隙(ひま)なく見ゆる心苦しさ、よその袂(たもと)までもせきかぬる心地す。忘れてもまどろませ給ふ時なければ、夢の中(うち)にも逢ひ見給ふことはあり難し。夜の蟋蟀(きりぎりす)、枕にすだく声にも御涙勝り、夕べの蛍の汀(みぎは)に渡る思ひにも、御胸の苦しさ抑へ難し。壁に背けたる残りの灯火(ともしび)、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾(ふすま)むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。+春の風に花の開きたる朝(あした)、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面(おも)に咲き乱れ、色々の紅葉、階(はし)の上に散り積む。昔、楊貴妃の間近く仕へ給ひし女房など、月くまなき夜は、昔を恋ひ涙にむせびつつ、琴を調べ琵琶を弾きけるにも、いとど御袖の上、隙なく見ゆる心苦しさ、よその袂までもせきかぬる心地す。忘れてもまどろませ給ふ時なければ、夢のうちにも逢ひ見給ふことはあり難し。夜の蟋蟀(きりぎりす)、枕にすだく声にも御涙勝り、夕べの蛍の汀に渡る思ひにも、御胸の苦しさ抑へ難し。壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾(ふすま)むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。
  
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text/kara/m_kara018.txt · 最終更新: 2014/11/30 02:35 by Satoshi Nakagawa