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text:hosshinju:h_hosshinju0-00 [2017/03/15 21:51] – 作成 Satoshi Nakagawa | text:hosshinju:h_hosshinju0-00 [2017/03/15 23:25] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa | ||
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仏の教へ給へることあり。「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」と。 | 仏の教へ給へることあり。「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」と。 | ||
- | まことなるかな、この言(こと)。一期過ぐる間に、思ひと思ふわざ、悪業にあらずといふことなし。もし、形をやつし、衣を染て、世の塵にけがされざる人すら、そともの鹿(かせぎ)緤つな(ぎ)がたく、家の犬、常に馴れたり。 | + | まことなるかな、この言(こと)。一期過ぐる間に、思ひと思ふわざ、悪業にあらずといふことなし。もし、形をやつし、衣を染て、世の塵にけがされざる人すら、そともの鹿(かせぎ)緤(つな)ぎがたく、家の犬、常に馴れたり。 |
何にいはんや、因果の理(ことはり)を知らず、名利の謬(あやま)りに沈めるをや。むなしく五欲のきづなに引かれて、つひに奈落の底に入りなんとす。心有らん人、誰かこのことを恐れざらんや。 | 何にいはんや、因果の理(ことはり)を知らず、名利の謬(あやま)りに沈めるをや。むなしく五欲のきづなに引かれて、つひに奈落の底に入りなんとす。心有らん人、誰かこのことを恐れざらんや。 | ||
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今、これをいふに、天竺・震旦の伝へ聞くは、遠ければ書かず。仏菩薩の因縁は、分にたへざればこれを残せり。ただ、わが国の人の、耳近きを先として、承はる言の葉をのみ注(しる)す。 | 今、これをいふに、天竺・震旦の伝へ聞くは、遠ければ書かず。仏菩薩の因縁は、分にたへざればこれを残せり。ただ、わが国の人の、耳近きを先として、承はる言の葉をのみ注(しる)す。 | ||
- | されば、さだめて謬(あやまり)は多く、まことは少なからん。もしまた、再び問ふに便りなきをば、所の名・人の名を記さず。いはば、雲を取り、風をむすべるがごとし。誰人か、これを用ゐん。ものしかあれど、人信ぜよとにもあらねば、必ずしも、たしかなる跡を尋ねず。道のほとりのあだごとの中に、わが一念の発心を楽むばかりにやと、言へり。 | + | されば、さだめて謬(あやまり)は多く、まことは少なからん。もしまた、再び問ふに便りなきをば、所の名・人の名を記さず。いはば、雲を取り、風をむすべるがごとし。誰人か、これを用ゐん。ものしかあれど、人信ぜよとにもあらねば、必ずしも、たしかなる跡を尋ねず。道のほとりのあだごとの中に、わが一念の発心を楽むばかりにやと言へり。 |
text/hosshinju/h_hosshinju0-00.1489582268.txt.gz · 最終更新: 2017/03/15 21:51 by Satoshi Nakagawa