世継物語
第2話 和泉式部がもとに帥の宮通はせ給ひけるころ・・・
校訂本文
今は昔、和泉式部がもとに、帥の宮、通はせ給ひけるころ、久しくおはさせ給はざりけるに、その宮に侍りし童(わらは)の来たりけるに文なし。帰り参るに、
またましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ今日の夕暮
持て参りて、参らせければ、「悲しくなりにけり」とて、心苦しうてやがておはしましたり。
女も月を詠めて端にゐたりけり。前栽の露きらきらと置きたるに、「人は草葉の露なれや」とのたまはするさま、優にめでたし。御扇に御文を入て、「御使ひの」とて、「参りにければ」とて給はす。扇を指出して取つ。「今宵は帰りなん。明日物忌と言ふなりつなれば、長くもあやしかるべければ」とのたまはすれば、
心みに雨も降らなん宿過ぎて空行く月の影や止まると
聞こえたれば、「吾が1)君や」とて、しばし上りて細やかに語らひおきて、出させ給ふとて、
あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出れ心やは行く
ありつる文をみれば、
我ゆゑに月を眺むと告げつれば誠かと見に出て来にけり
「何事につけても、をかしくおはしますに、あはあはしき物に思はれまいらせたる、心憂くうく覚ゆ」と日記に書たり。
初めつ方は、かやうに心ざしもなき様に見えければ、後には上をも去り奉らせ給ひて、ひたぶるに、この式部を妻(め)にせさせ給ひたりと見えたり。
保昌に具して、丹後へ下たるに、「明日狩せん」とて、物とり集ひたる夜、さほ鹿のいたく鳴きければ、「いであはれ、明日死なむずれば、いたく鳴くにこそ」と、心憂がりければ、「さおぼさば、狩とどめんに、かからん歌を詠み給へ」と言はれて
ことはりやいかでか鹿の鳴かざらん今宵ばかりの命と思へば
さて、その日の狩はとどめてけり。
保昌に忘られて侍りけるころ、貴布弥に参て、御手洗河に蛍の飛けるを見て
物思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる玉かとぞ見る 奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉散るばかり物な思ひそ
この歌、貴布弥明神の御返しなり。男の声にて耳に聞えけるとかや。
翻刻
今は昔和泉式部かもとに帥の宮かよはせ給ける此久し くをはさせ給はさりけるに其宮に侍しわらはの来りけ るに文なし帰りまいるに またましもかはかりこそはあらましか思ひもかけぬけふの夕暮 もてまひりて参らせけれは悲しく成にけりとて心くるし うてやかておはしましたり女も月を詠めてはしにゐた りけりせんさいの露きらきらとをきたるに人は草葉の 露なれやとの給はするさまいふにめてたし御扇に御 文を入て御つかひのとて参にけれはとて給はす扇を 指出して取つこよひは帰りなんあす物忌といふなりつな/3ウ
れはなかくもあやしかるへけれはとの給はすれは 心みに雨もふらなんやとすきて空行月の影やとまると きこえたれはあるきみやとてしはしのほりてこまや かにかたらひをきて出させ給とて あちきなく雲ゐの月にさそはれて影こそ出れ心やはゆく ありつる文をみれは 我ゆへに月をなかむと告つれは誠かと見に出てきにけり 何事につけてもおかしくおはしますにあはあはしき物に思は れまいらせたる心うく覚ゆと日記に書たり初つかたはか様 に心さしもなき様に見えけれは後にはうへをもさり奉/4オ
らせ給てひたふるに此式部を妻にせさせ給ひたりとみ えたりやすまさにくして丹後へ下たるに明日狩せんとて 物とりつとひたる夜さほ鹿のいたく鳴けれはいてあはれ 明日しなむすれはいたく鳴にこそと心うかりけれはさお ほさは狩ととめんにかからん歌をよみ給へといはれて ことはりやいかでか鹿の鳴さらんこよひ斗の命と思へは さて其日の狩はととめてけりやすまさにわすられて侍 ける比貴布弥に参て御手洗河に蛍の飛けるをみて 物思へは沢の蛍も我身よりあくかれ出る玉かとそみる 奥山にたきりて落る滝つせの玉ちる斗物なおもひそ/4ウ
此歌貴布弥明神の御返し也男の声にてみみに 聞えけるとかや/5オ