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| text:shaseki:ko_shaseki10a-01 [2019/05/01 22:53] – 作成 Satoshi Nakagawa | text:shaseki:ko_shaseki10a-01 [2024/12/14 23:04] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa | ||
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| かの僧正は、近ごろの智者と聞こえき。ありがたき知識に会はれて、仏法の大綱、存知せられける。肇公((僧肇))の宝蔵論・肇論、仏法の大綱これにあり。この老人の意、天然とあひかなへり。 | かの僧正は、近ごろの智者と聞こえき。ありがたき知識に会はれて、仏法の大綱、存知せられける。肇公((僧肇))の宝蔵論・肇論、仏法の大綱これにあり。この老人の意、天然とあひかなへり。 | ||
| - | 宝蔵論は最後の作、三帝仏法の大意、分明なり。肇論文、下にこれあり。一行禅師・善無畏三蔵の口伝を受け伝へ給へる大日経の疏にも、「菩提は人に授くること、手の中の菓を人に与ふるごとくに非ず。必ず無師自悟の智慧ありて得べし。心を得る妙は、人に授くべきにあらず((「あらず」は底本「ヲラズ」。諸本により訂正。))」と言へり。高野大師((空海))の御言にも、「密教の本意は、心をもつて心を伝ふ。文字はこれ瓦礫、文字はこれ糟粕なり」とのたまへり。性霊集に見えたり。天台智者大師((智顗))、南岳に三種の止観を伝へ給へるも、文字をば伝へ給へりといへども、「証不由他。(証は他に由らず。)」と言ひて、まことの自証はわれと得給へり。 | + | 宝蔵論は最後の作、三帝仏法の大意、分明なり。肇論文、下にこれあり。一行禅師・善無畏三蔵の口伝を受け伝へ給へる大日経の疏にも、「菩提は人に授くること、手の中の菓を人に与ふるごとくに非ず。必ず無師自悟の智慧ありて得べし。心を得る妙は、人に授くべきにあらず((「あらず」は底本「ヲラズ」。諸本により訂正。))」と言へり。高野大師((空海))の御言にも、「密教の本意は、心をもつて心を伝ふ。文字はこれ瓦礫、文字はこれ糟粕なり」とのたまへり。性霊集に見えたり。天台智者大師((智顗))、南岳((慧思))に三種の止観を伝へ給へるも、文字をば伝へ給へりといへども、「証不由他。(証は他に由らず。)」と言ひて、まことの自証はわれと得給へり。 |
| 教門の言語義理は、習ひ伝ふといへどとも、言を離れ義を忘れて、知るところは不伝の妙なり。われとみづから知るべし。これを仏祖不伝の妙と言ふなり。一行禅師の疏にも、「人の疵をかぶれる、痛みあること疑ひなしといへども、まさしく痛みを知ることは、われ疵をかぶりて知るがごとし」と言へり。祖師のいはく、「水を飲みて、冷暖自知する」と言へる、この心なり。水は冷く湯は温なりと習ひ知るといへども、まさしく飲み触れずは、いかでか知らん。真実の意を得ること、これになずらふべし。 | 教門の言語義理は、習ひ伝ふといへどとも、言を離れ義を忘れて、知るところは不伝の妙なり。われとみづから知るべし。これを仏祖不伝の妙と言ふなり。一行禅師の疏にも、「人の疵をかぶれる、痛みあること疑ひなしといへども、まさしく痛みを知ることは、われ疵をかぶりて知るがごとし」と言へり。祖師のいはく、「水を飲みて、冷暖自知する」と言へる、この心なり。水は冷く湯は温なりと習ひ知るといへども、まさしく飲み触れずは、いかでか知らん。真実の意を得ること、これになずらふべし。 | ||
text/shaseki/ko_shaseki10a-01.1556718792.txt.gz · 最終更新: by Satoshi Nakagawa
