text:shaseki:ko_shaseki03a-01
差分
このページの2つのバージョン間の差分を表示します。
次のリビジョン | 前のリビジョン | ||
text:shaseki:ko_shaseki03a-01 [2018/09/06 21:56] – 作成 Satoshi Nakagawa | text:shaseki:ko_shaseki03a-01 [2019/05/01 14:11] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa | ||
---|---|---|---|
行 57: | 行 57: | ||
悉達太子((釈迦))、金輪の位を捨てて檀持山へ入り、車匿(しやのく)を王宮へ返し給ひし時、車匿、泣く泣く申さく、「深宮に長(ひと)となり、万人に仰がれましましき。かかる深山に、ただ一人は、いかでか住ませ給ふべき。仕へ奉るべし」と申ししかども、「生死の習ひ、独り生れ独り去る。中間(ちうげん)に何ぞ必ずしも人とともなはん。われ、無上道を得たらん時、一切衆生を伴とすべし」とて、王宮へ返し給ひき。はたして、三界の独尊となり、四生の群類を導き給ひき。 | 悉達太子((釈迦))、金輪の位を捨てて檀持山へ入り、車匿(しやのく)を王宮へ返し給ひし時、車匿、泣く泣く申さく、「深宮に長(ひと)となり、万人に仰がれましましき。かかる深山に、ただ一人は、いかでか住ませ給ふべき。仕へ奉るべし」と申ししかども、「生死の習ひ、独り生れ独り去る。中間(ちうげん)に何ぞ必ずしも人とともなはん。われ、無上道を得たらん時、一切衆生を伴とすべし」とて、王宮へ返し給ひき。はたして、三界の独尊となり、四生の群類を導き給ひき。 | ||
- | まことに生老病死の国、衆苦充満の界、少しきの前後あれども、そひ果つべきにあらず。夢のごとくして死し去り、面々の業にまかせて品々の果を受けん時は、われも人を知らず、人もわれを知らず、山野の獣と生まれ、江海の鱗(うろくづ)となりなば、互ひに殺し食して、昔の情も恩も知るべからず。 | + | まことに生老病死の国、衆苦充満の界、少しきの前後あれども、そひ果つべきにあらず。夢のごとくして死し去り、面々の業にまかせて品々の果を受けん時は、われも人を知らず、人もわれを知らず、山野の獣と生まれ、江海の鱗(いろくづ)となりなば、互ひに殺し食して、昔の情も恩も知るべからず。 |
しかれば、真実(しんじち)の菩提心を発(おこ)し、父母妻子の情けを捨てて、山林閑静の居を占め、善友に近付き、正法(しやうぼふ)を聞き、真正に信解(しんげ)し、如説に修行して、生死を離れ、浄土に生じ、無生を証し、神通を得て、種々の方便をもつて、まづ有縁の父母妻子等を教化し、引導して、一仏浄土の快楽(けらく)を受け、無為自然の果報を得て、生老病死の苦もなく、愛別離苦の憂ひもなき、常住不退の無漏(むろ)の仏国に住して、常に十方の仏に仕へ、あまねく六趣の生を利せん時は、昔捨てて今会へることを思ひ続けて、かくこそ申つべけれ。「離れたればこそはなれね。離れずは離れなまし。かしこくぞ離れける。希有に離るらうに」。 | しかれば、真実(しんじち)の菩提心を発(おこ)し、父母妻子の情けを捨てて、山林閑静の居を占め、善友に近付き、正法(しやうぼふ)を聞き、真正に信解(しんげ)し、如説に修行して、生死を離れ、浄土に生じ、無生を証し、神通を得て、種々の方便をもつて、まづ有縁の父母妻子等を教化し、引導して、一仏浄土の快楽(けらく)を受け、無為自然の果報を得て、生老病死の苦もなく、愛別離苦の憂ひもなき、常住不退の無漏(むろ)の仏国に住して、常に十方の仏に仕へ、あまねく六趣の生を利せん時は、昔捨てて今会へることを思ひ続けて、かくこそ申つべけれ。「離れたればこそはなれね。離れずは離れなまし。かしこくぞ離れける。希有に離るらうに」。 | ||
行 107: | 行 107: | ||
上にいへる顕密禅教の大意、一心を明らめ、真空を悟らしむ。方便を捨てて、実理を達せば、異るべからず。大珠和尚((大珠慧海))いはく、「迷時人逐法、語罷法由人。森羅万像、至空而極、百川衆流、至海而極、一切賢聖、至仏而極。十二部経、五部毘尼、四囲陀論、至心而極。心是惣持都陀、万法之原。亦是大智慧蔵、無住涅槃。百千名号、皆是心之異名也云云」。 | 上にいへる顕密禅教の大意、一心を明らめ、真空を悟らしむ。方便を捨てて、実理を達せば、異るべからず。大珠和尚((大珠慧海))いはく、「迷時人逐法、語罷法由人。森羅万像、至空而極、百川衆流、至海而極、一切賢聖、至仏而極。十二部経、五部毘尼、四囲陀論、至心而極。心是惣持都陀、万法之原。亦是大智慧蔵、無住涅槃。百千名号、皆是心之異名也云云」。 | ||
- | 一代の教門、空を明むるを大体とす。しかるに、教学の人、禅門をば空に落つと思へり。これ教門に暗きゆゑなり。法華((法華経))には、「如来智是一相一味之法。所謂解脱相離相滅相究竟涅槃常寂滅相。終帰於空」と説き、また、「諸法空為座」と言ひ、「一切諸法空無所有」と言へり。涅槃経には、「迦毘羅城空。大涅槃空」と言へり。大般若((大般若経))には、「有一法過涅槃我説如幻」と、円覚経には、「非作故無。本性無故」と言へり。真言の祖師、一行禅師は、「一切衆生色心実相。従本際以来、常是毘盧遮那平等智身。非是得菩提強空諸法使成法界也」と釈して、「一切衆生、本来空寂にして、毘盧遮那法界の体なり。菩提を得る時、はじめて空ずるにあらず」と言へり。 | + | 一代の教門、空を明むるを大体とす。しかるに、教学の人、禅門をば空に落つと思へり。これ教門に暗きゆゑなり。法華((法華経))には、「如来智是一相一味之法。所謂解脱相離相滅相究竟涅槃常寂滅相。終帰於空」と説き、また、「諸法空為座」と言ひ、「一切諸法空無所有」と言へり。涅槃経には、「迦毘羅城空。大涅槃空」と言へり。大般若((大般若経))には、「有一法過涅槃我説如幻」と、円覚経((大方広円覚修多羅了義経))には、「非作故無。本性無故」と言へり。真言の祖師、一行禅師は、「一切衆生色心実相。従本際以来、常是毘盧遮那平等智身。非是得菩提強空諸法使成法界也」と釈して、「一切衆生、本来空寂にして、毘盧遮那法界の体なり。菩提を得る時、はじめて空ずるにあらず」と言へり。 |
されば、空門を真実の門とし、一心を万法の源として、いづれの仏法も修行すべし。これ断滅の空にあらず。悪取空にあらず。偏少の空にあらず。住相の空にあらず。これ第一義、諦の真空なり。 | されば、空門を真実の門とし、一心を万法の源として、いづれの仏法も修行すべし。これ断滅の空にあらず。悪取空にあらず。偏少の空にあらず。住相の空にあらず。これ第一義、諦の真空なり。 |
text/shaseki/ko_shaseki03a-01.txt · 最終更新: 2019/05/01 14:11 by Satoshi Nakagawa