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text:mumyosho:u_mumyosho050 [2014/09/30 03:15] – 作成 Satoshi Nakagawatext:mumyosho:u_mumyosho050 [2014/09/30 03:16] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa
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 ** 歌人は不可証得事 ** ** 歌人は不可証得事 **
  
-俊恵に和歌の師弟の契結び侍りし始めの言葉にいはく、「歌はきはめたる故実の侍るなり。われをまことに師と頼まれば、このこと違(たが)へらるな。そこは必ず末の世の歌仙にていますかる((底本「かる」に傍注「本ノママ」))べきうへに、かやうに契をなさるれば申し侍るなり。あなかしこ、あなかしこ、われ、人に許さるるほどになりたりとも、証得して、われは気色(きそく)したる歌詠み給ふな。ゆめあるまじきことなり。後徳大寺の大臣(おとど)は、左右無き手((底本「無左右手」))だりにていませしかど、その故実なくて、今は詠み口後手になり給へり。そのかみ、前(さき)の大納言などきこえし時、道を執し、人を恥ぢて、磨き立てたりし時のままならば、今は肩並ぶ人、少なからまし。『われ至りにたり』とて、この比詠まるる歌は少しも思ひ入れず、やや心づきなき詞(ことば)うち混ぜたれば、何によりてかは秀歌も出でこん。秀逸なければ、また人用ゐず。歌は当座にこそ、人がらによりて、良くも悪しくも聞こゆれど、後朝に今一度((底本「座」。諸本により訂正))静かに見たる度(たび)は、さはいへども、風情も籠り姿も素直なる歌こそ見通しは侍れ。かく聞こゆるは、をこの例(ためし)なれど、俊恵はこのごろも、ただ初心のころのごとく、歌を案じ侍りぬ。わが心をば次にして、あやしけれど、人の讃(ほ)めも謗(そし)りもするを用ゐ侍るなり。これは古き人の教へ侍りしことなり。この事保てる験(しるし)にや、さすがに老い果てたれど、俊恵を『詠み口ならず』と申す人は無きぞかし。また、異事(ことご)とにあらず。この故実を誤(あやま)たぬゆゑなり。+俊恵に和歌の師弟の契結び侍りし始めの言葉にいはく、「歌はきはめたる故実の侍るなり。われをまことに師と頼まれば、このこと違(たが)へらるな。そこは必ず末の世の歌仙にていますかる((底本「かる」に傍注「本ノママ」))べきうへに、かやうに契をなさるれば申し侍るなり。あなかしこ、あなかしこ、われ、人に許さるるほどになりたりとも、証得して、われは気色(きそく)したる歌詠み給ふな。ゆめあるまじきことなり。後徳大寺の大臣(おとど)は、左右無き手((底本「無左右手」))だりにていませしかど、その故実なくて、今は詠み口後手になり給へり。そのかみ、前(さき)の大納言などきこえし時、道を執し、人を恥ぢて、磨き立てたりし時のままならば、今は肩並ぶ人、少なからまし。『われ至りにたり』とて、この比詠まるる歌は少しも思ひ入れず、やや心づきなき詞(ことば)うち混ぜたれば、何によりてかは秀歌も出でこん。秀逸なければ、また人用ゐず。歌は当座にこそ、人がらによりて、良くも悪しくも聞こゆれど、後朝に今一度((底本「座」。諸本により訂正))静かに見たる度(たび)は、さはいへども、風情も籠り姿も素直なる歌こそ見通しは侍れ。かく聞こゆるは、をこの例(ためし)なれど、俊恵はこのごろも、ただ初心のころのごとく、歌を案じ侍りぬ。わが心をば次にして、あやしけれど、人の讃(ほ)めも謗(そし)りもするを用ゐ侍るなり。これは古き人の教へ侍りしことなり。この事保てる験(しるし)にや、さすがに老い果てたれど、俊恵を『詠み口ならず』と申す人は無きぞかし。また、異事(ことご)とにあらず。この故実を誤(あやま)たぬゆゑなり
  
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text/mumyosho/u_mumyosho050.1412014544.txt.gz · 最終更新: 2014/09/30 03:15 by Satoshi Nakagawa