中巻 第1 イソポ、子息に異見の条々
校訂本文
一 なんぢ、このことをよく聞くべし。他人によく道を教ゆるといへども、わが身に保たざることあり。
二 それ人間のありさまは夢幻(ゆめまぼろし)のごとし。しかのみならず、わづかなるこの身を助けんがため、ややもすれば悪道には入りやすく、善人には入りがたし。ことにふれて、わが身のはかなきことをかへり見るべし。
三 常に天道を敬ひことごとに天命を恐れ奉るべし。
四 君に二心(ふたごころ)なく忠節を尽くすままに、命を惜しまず、真心に仕へ奉るべし。
五 それ、人として法度(はつと)を守らざれば、ただ畜類(ちくるい)に異ならず。ほしいままの悪道を修(しゆ)せば、すなはち天罰を受けんこと、踵(くびす)をめぐらすべからず。
六 難儀出で来ん時、広き心をもつてその難を忍ぶべし。しかれば、たちまち自在の功徳となつて、善人(ぜんじん)に至るべし。
七 人として重からざる時は、威なし。敵、必ずこれを侮(あなど)る。しかりといへども、親しき人には、軽(かろ)く柔らかに向ふべし。
八 わが妻女に常に諫(いさ)めをなすべし。すべて女は邪路(じやろ)に入りやすく、能道(のうだう)には入りがたし。
九 慳貪放逸(けんどんはういち)の者にともなふことなかれ。
十 悪人の威勢を羨むことなかれ。ゆゑいかにとなれば、上(のぼ)るものは、つひには下るものなり。
十一 わが言葉を少なくして、他人の語を聞くべし。
十二 常にわが口に能道の轡(くつわ)を含むべし。ことに酒宴の座に連なる時、もの云ふことを慎しむべし。ゆゑいかんとなれば、酒宴の習ひ、良き言葉を退けて、狂言綺語(きやうげんきぎよ)を用ゆるものなり。
十三 能道(のうだう)を学する時、そのはばかりをかへりみざれ。習ひ終はれば、君子となるものなり。
十四 権威をもつて人を従へんよりは、しかじ、柔らかにして人になつかしんぜられよ。
十五 隠すことを女に知らすべからず。女は心はかなうして、外に漏らしやすきものなり。それによつて、たちまち大事も出で来たれ。
十六 なんぢ、乞食(こつじき)・非人(ひにん)を卑しむることなかれ。かへつて慈悲心をおこさば、天帝のたすけに預かるべし。
十七 事(こと)の後に千万悔いんよりは、しかじ、事の前(さき)に一度(ひとたび)案ぜよ。
十八 極悪の人に教化(けうくわ)をなすとおなかれ。眼(まなこ)を愁(うり)やうる者のためには、光1)かへつて障りとなるがごとし。
十九 病を治するには薬をもつてす。人の心の曲れるを直すには、よき教へをもつてするなり。
二十 老者の異見を軽(かろ)しむることなかれ。老いたる者は、そのことわが身にほだされてなり。なんぢも年老い齢(よはひ)重なるにしたがつて、そのことたちまち出来(しゆつたい)すべし。
翻刻
伊曾保物語中 第一 いそほ子息にいけんの条々 一 汝此ことをよく聞へし他人に能道ををしゆる といへともわか身にたもたさることあり 二 それ人間のありさまは夢まほろしのことし しかのみならすわつかなるこの身をたすけん かためややもすれは悪道には入やすく善人に はいりかたしことにふれてわか身のはか なき事をかへり見るへし 三 つねに天道をうやまひことことにてんめい ををそれたてまつるへし/2-36l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/36
四 君にふた心なくちうせつをつくすままに命を をします真心につかへたてまつるへし 五 夫人としてはつとをまもらされはたた畜類に ことならすほしゐままの悪道をしゆせは則 天罰をうけん事くひすをめくらすへからす 六 なん儀いてこんときひろきこころをもつて其 なんをしのふへししかれはたちまちちさいの くとくとなつてせんしんにいたるへし 七 人としておもからさる時は威なし敵必これを あなとるしかりといへともしたしきひとに はかろくやはらかにむかふへし/2-37r
八 我妻女につねにいさめをなすへしすへて女 は邪路に入やすく能道にはいりかたし 九 けんとんはういちの者にともなふ事なかれ 十 悪人のいせいをうらやむ事なかれゆへいか にとなれはのほる物はつゐにはくたる物なり 十一我言葉をすくなくして他人の語をきくへし 十二つねにわか口に能道のくつはをふくむへし ことに酒えんの座につらなる時物いふ事を つつしむへしゆへいかんとなれは酒えんの ならひよきことはをしりそけてきやうけんき きよをもちゆるものなり/2-37l
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532142/1/37
十三のうたうを学するときそのははかりをかへり 見されならひおはれは君子となるものなり 十四権威をもつてひとをしたかへんよりはしかし やはらかにして人になつかしんせられよ 十五かくす事を女にしらすへからす女は心はか なうして外にもらしやすき物なりそれによ つてたちまち大事もいてきたれ 十六汝こつしき非人をいやしむる事なかれかへ つて慈悲心ををこさは天帝のたすけに預へし 十七ことの後に千万くゐんよりはしかしことの さきにひとたひあんせよ/2-38r
十八極悪の人にけう化をなす事なかれまなこ をうりやうるもののためにはひとりかへつて さはりとなるかことし 十九病を治するには薬をもつてす人の心のまかれ るをなをすには能をしへをもつてするなり 廿 老者のいけんをかろしむる事なかれおいたる ものはその事我身にほたされてなり汝も 年おいよはひかさなるにしたかつて其事 たちまち出来すへし/2-38l