rhizome:上田秋成
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rhizome:上田秋成 [2014/03/16 04:39] – 外部編集 127.0.0.1 | rhizome:上田秋成 [2014/03/31 20:46] (現在) – Satoshi Nakagawa | ||
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秋成は次第に国学研究の傾向を深め、秋成五十三・四歳の時、天明六年〜七年(1786〜1787)[[本居宣長]]との古代国語の[[音韻]]と[[記紀]]の日神についての論争を通じてさらに国学に傾倒するようになる。この書簡の応酬による論争は宣長編による『[[呵刈葭]]』によって知ることができる。このころ、俗文学としては風刺小説『[[書初機嫌海]]』を書く。 | 秋成は次第に国学研究の傾向を深め、秋成五十三・四歳の時、天明六年〜七年(1786〜1787)[[本居宣長]]との古代国語の[[音韻]]と[[記紀]]の日神についての論争を通じてさらに国学に傾倒するようになる。この書簡の応酬による論争は宣長編による『[[呵刈葭]]』によって知ることができる。このころ、俗文学としては風刺小説『[[書初機嫌海]]』を書く。 | ||
- | 天明七年、五十四歳のときに、秋成は大阪市中を去って、郊外の淡路庄村へ引越す。二年後の寛政元年(1789)、妻の母、養母が亡くなり、妻のたまは出家、瑚&# | + | 天明七年、五十四歳のときに、秋成は大阪市中を去って、郊外の淡路庄村へ引越す。二年後の寛政元年(1789)、妻の母、養母が亡くなり、妻のたまは出家、瑚璉尼と名乗るようになる。さらに翌年、五十七歳のときに左眼を失明。その間、『[[癇癖談]]』を執筆、寛政三年に脱稿する(刊行は没後)。 |
- | 寛政五年六月、六十歳で京都の知恩院門前袋町へ出る。多くの文人と交流し、多数の国学関連の著書を執筆。寛政九年十二月、瑚&# | + | 寛政五年六月、六十歳で京都の知恩院門前袋町へ出る。多くの文人と交流し、多数の国学関連の著書を執筆。寛政九年十二月、瑚璉尼五十八歳で死去。 |
- | 瑚&# | + | 瑚璉尼の死の直後、寛政十年四月下旬、ついに秋成は全盲となるが、播磨の眼科医谷川氏兄弟により、以前から見えなくなっていた左目が見えるようになる。 |
その後も執筆を続けるが、文化四年(1807)秋成七十四歳のの秋、南禅寺山内の庵の古井戸に、それまでに書いた著書をすべて捨ててしまう。『雨月物語』と並ぶ読本の傑作『[[春雨物語]]』はこの後書かれ、[[写本]]として伝わった。さらに最晩年には、[[随筆]]『[[胆大小心録]]』を著し、文化六年(1809)六月二十七日、七十六歳で門人羽倉信美の家で没した。 | その後も執筆を続けるが、文化四年(1807)秋成七十四歳のの秋、南禅寺山内の庵の古井戸に、それまでに書いた著書をすべて捨ててしまう。『雨月物語』と並ぶ読本の傑作『[[春雨物語]]』はこの後書かれ、[[写本]]として伝わった。さらに最晩年には、[[随筆]]『[[胆大小心録]]』を著し、文化六年(1809)六月二十七日、七十六歳で門人羽倉信美の家で没した。 | ||
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rhizome/上田秋成.txt · 最終更新: 2014/03/31 20:46 by Satoshi Nakagawa