撰集抄
長承の末の年、出家の望みとげて、貴き所々をも巡礼し、面白き所をも見まゆかしく1)思えて、吉野山にさかのぼりて、三年(みとせ)を送り侍りき。
山のありさま、花の色、木のすがた、所のしづかなること、都にて思ひやりしにはなほまさりて、すごく侍りき。楢の葉2)までは、こちたき深山3)の嵐、尾花の末に弱り、桜は雪に咲きかはり行くさま、めづらかに侍り。上下の御前、安山宝塔の御ありさま、心なからんすら見過しがたく侍るべし。されば、この所は、心もとまりて思え侍りしままに、三年(みとせ)を過ごし侍りき。
ある年の弥生のころ、庵の前に桜の散り乱れて、よにおもしろくながめわたりて侍るに、年五十(いそぢ)にたけたる僧の、まことにつたなげなるが、片方(かたかた)の袂に米を包めりけるが、この花の下に寄り来て、うち休みて居たり。
「あら、むざんの者や。道心なんども侍らねど、世の過ぎがたさに、人の門にたたずみて、袖を広ぐるわざをし侍るにこそ」とうち思ひて、何となく高らかに念仏して侍るに、この僧の立ち出で帰りなむとするを、仏菩薩は生きとし生けるたぐひをあはれみ給へば、あれをとても、見過すべきにあらず。その上、同じく仏性をそなへる4)人なり、少しもそばむる心侍らじ」と思ひなして、「しばらく、花ながめ給へ」と言ひたるに、僧、「嬉しくものたまはせ侍り。ただし、
咲かぬまもさてこそ過ぐれ山桜さのみや花のかげに暮らさむ
とこそ思え侍れ」とうち聞こえたるゆかしさに、「ただ人にはおはせざりける」と思ひて、
散らぬまは5)花をのみ待つ旅人の咲けばなどてかながめざるらん
と返し侍りしかば、この人、心寄せげに思ひて、「われも、この山の奥、世を遁れ侍る者なり。おはして、住処(すみか)も見給へかし」とありしかば、やがていざなひつれて、見にまかりたれば、桜の四五本茂る下に、松をもちて上を葺き、そばにも立て回して、着たる帷のほかは、つゆ持ちたる物も侍らず。人里はるかにて、思ひ澄ませる庵ならむと見えて、いとうらやま しく、あらまほしき住処に侍り。
「さても、何としてか、後世の闇は、はるけぬべき」と尋ね侍りしかば、「三世不可得の観とこそ、思ひて侍れ」とぞ答へられ侍りし。「ただ、うちやりの乞食とこそ思ひ侍りつるに、かかる道心者にていまそかりけることよ」と、ありがたく思えて、「この峰に住まんほどは」と契りて帰り侍りにき。
ことのさま、まことに道心者とぞ見え侍りし。山深く住みて、三世不可得の悟りを開きておはしけん心の中、たとへなくぞ侍る。
むる事をえすあはれ床敷かりける心かな長承の 末の年出家の望とけて貴き所々をも巡礼し 面白き所をも見まゆかしく覚て吉野山にさか のほりて三とせを送り侍き山のありさま花の色 木のすかた所の閑なる事都にておもひやりしには/k215r
猶まさりてすこく侍りきなしのはまてはこちたき 太山の嵐を花のすゑによはり桜は雪にさきかはり 行さまめつらかに侍り上下の御前安山宝塔の御 有様心なからんすらみすこしかたく侍へしされは 此所は心もとまりて覚侍しままに三とせを過し 侍りきある年のやよひの比庵の前に桜の散み たれてよにおもしろくなかめわたりて侍にと し五十にたけたる僧の誠につたなけなるか片 かたの袂に米をつつめりけるかこの花の下により 来てうちやすみてゐたりあらむさんの者や/k215l
道心なんとも侍らねと世の過かたさに人の門にたた すみて袖をひろくるわさをし侍るにこそとうち 思ひてなにとなく高らかに念仏して侍るに此 僧の立出かへりなむとするを仏菩薩はいきとし いけるたくひをあはれみ給へはあれをとてもみ すこすへきにあらす其上同く仏性を涌る人なり すこしもそはむる心侍らしとおもひなして且く 花なかめ給へといひたるに僧うれしくもの給 はせ侍りたたし さかぬまもさてこそすくれ山さくら/k216r
さのみや花のかけにくらさむ とこそ覚侍れとうち聞えたるゆかしさに忠 人にはおはせさりけるとおもひて 散ぬまは花をのみまつ旅人の さけはなとてかなかめさるらん と返し侍しかは此人心よせけにおもひて我も此 山のおく世をのかれ侍る者なりおはしてすみかも 見給へかしと有しかはやかていさなひつれて みにまかりたれは桜の四五本しける下に松をも ちて上をふきそはにもたてまはして着たる/k216l
帷の外は露もちたる物も侍らす人里遥にて おもひすませる庵ならむとみえていとうらやま しく有まほしき住家に侍りさても何として か後世のやみははるけぬへきと尋侍しかは三世不 可得の観とこそ思ひて侍れとそ答られ侍し たたうちやりの乞食とこそおもひ侍りつるに かかる道心者にていまそかりける事よとあり かたく覚て此峰にすまん程はと契て帰り 侍りにき事の様まことに道心者とそ見え侍し 山ふかくすみて三世不可得の悟を開ておはしけん/k207r
心中たとへなくそ侍る/k207l