宇治拾遺物語 ====== 第189話(巻15・第4話)門部府生、海賊射返す事 ====== **門部府生海賊射返ス事** **門部府生、海賊射返す事** ===== 校訂本文 ===== 是も今は昔、門部(かどべ)の府生(ふしやう)といふ舎人ありけり。若く、身は貧しくてぞありけるに、ままきを好みて射けり。夜も射ければ、わづけなる家の葺板(ふきいた)を抜きて、灯して射けり。妻もこのことをうけず、近辺の人も、「あはれ、よしなきことをし給ふものかな」と言へども、「わが家もなくてまどはんは、誰(たれ)も何か苦しかるべき」とて、なほ葺板を灯して射る。これをそしらぬ者、一人もなし。 かくするほどに、葺板みな失せぬ。はてには、垂木(たるき)・木舞(こまひ)を割り焚きつ。また後には、棟・梁(うつばり)焼きつ。後には、桁(けた)・柱みな割り焚きつ。「これ、あさましきもののさまかな」と言ひあひたるほどに、板敷、下桁(したげた)まで、みな割り焚きて、隣の人の家に宿りたりけるを、家主、この人のやうだい見るに、「この家も、こぼち焚きなんず」と思ひて、厭(いと)へども、「さのみこそあれ。待ち給へ」など言ひて過ぐるほどに、よく射るよし、聞こえありて、召し出だされて、賭弓(のりゆみ)つかふまつるに、めでたく射ければ、叡感ありて、果てには相撲の使(つかひ)に下りぬ。 よき相撲ども、多く催し出でぬ。また、数知らず物まうけて上りりけるに、かばね島といふ所は海賊の集まる所なり。過ぎ行くほどに、具したる者の言ふやう、「あれ、御覧候へ。あの舟どもは、海賊の舟どもにこそ候ふめれ。こは、いかがせさせ給ふべき」と言へば、この門部の府生言ふやう、「をのこ、な騒ぎそ。千万人の海賊ありとも、今見よ」と言ひて、皮子(かはご)より、賭弓の時着たりける装束取り出でて、うるはしく装束(ひやうぞ)きて、冠・老懸(おいかけ)など、あるべきぢやうにしければ、従者ども、「こは、ものに狂はせ給ふか。かなはぬまでも、楯つきなどし給へかし」と、いりめきあひたり。 うるはしく取り付けて、肩脱ぎて、馬手(めて)、後ろ見回して、屋形の上に立ちて、「今は四十六ぶに寄り来にたるか」と言へば、従者ども、「おほかたとかく申すに及ばず」とて、黄水(わうずい)をつきあひたり。「いかに、かく寄り来にたるか」と言へば、「四十六ぶに近付き候ひぬらん」と言ふ時に、上屋形(うはやかた)へ出で、あるべきやうに弓立(ゆだち)して、弓をさしかざして、しばしありて、うち上げたれば、海賊がむねとの者、黒ばみたるもの着て、赤き扇を開き使ひて、「とくとく漕ぎ寄せて、乗り移りて、移し取れ」と言へども、この府生、騒がずして、引きかためて、とろとろと放ちて、弓倒しして見やれば、この矢、目にも見えずして、むねとの海賊がゐたる所へ入りぬ。はやく左の目に、このいたつき立ちにけり。海賊、「や」と言ひて、扇を投げ捨てて、のけざまに倒れぬ。矢を抜きて見るに、うるはしく戦などする時のやうにもあらず、ちりばかりのものなり。これをこの海賊ども見て、「やや、これは、うちある矢にもあらざりけり。神箭(かみや)なりけり」と言ひて、「とくとく、おのおの漕ぎ戻りね」とて、逃げにけり。 その時、門部府生、うす笑ひて、「なにがしらが前には、あぶなく立つ奴ばらかな」と言ひて、袖うち下ろして、小唾(こつばき)吐きてゐたりけり。海賊、騒ぎ逃げけるほどに、袋一つなど、少々物ども落したりける、海に浮かびたりければ、この府生取りて笑ひてゐたりけるとか。 ===== 翻刻 ===== 是も今はむかしかとへの府生といふ舎人ありけりわかく身はま つしくてそありけるにままきをこのみて射けりよるもいけれは僅 なる家の葺き板をぬきてともしていけり妻もこの事をうけす 近辺の人もあはれよしなき事をし給物かなといへとも我家もなくて まとはんはたれもなにかくるしかるへきとてなをふき板をともして いるこれをそしらぬものひとりもなしかくする程に葺板みなうせ/下100ウy454 ぬはてにはたる木こまゐをわりたきつ又後には棟うつはり 焼つ後にはけた柱みなわりたきつこれ浅ましき物のさま かなといひあひたる程に板敷したけたまてみなわりたきて隣の人 の家にやとりたりけるを家主此人のやうたいみるに此家もこほ ちたきなんすと思ていとへともさのみこそあれ待給へなといひて すくる程によく射よしきこえありてめしいたされて賭弓つ かうまつるにめてたくいけれは叡感ありてはてには相撲の使にく たりぬよき相撲ともおほく催出ぬ又かすしらす物まうけて のほりけるにかはね島といふ所は海賊のあつまる所なり過行 程にくしたるもののいふやうあれ御覧候へあの舟共は海賊の舟ともに こそ候めれこはいかかせさせ給へきといへは此かとへの府生いふやう おのこなさはきそ千万人の海賊ありとも今みよといひて皮 子より賭弓の時きたりける装束とりいててうるはしくしやうそきて/下101オy455 冠老懸なとあるへき定にしけれは従者ともこは物にくるはせ 給か叶はぬまても楯つきなとし給へかしといりめきあひたりうる はしくとりつけてかたぬきてめてうしろみまはして屋形のうへに 立ていまは四十六ふによりきにたるかといへは従者共大かたと かく申に及はすとて黄水をつきあひたりいかにかくよりきに たるかといへは四十六ふにちかつきさふらひぬらんと云時にうは屋 かたへいててあるへきやうにゆたちして弓をさしかさしてしはしありて うちあけたれは海賊か宗とのものくろはみたる物きてあかき扇 をひらきつかひてとくとくこきよせて乗うつりてうつしとれといへとも この府生さはかすして引かためてとろとろとはなちて弓たをし してみやれはこの矢目にもみえすして宗との海賊かゐたる所へ 入ぬはやく左の目に此いたつきたちにけり海そくやといひ て扇をなけすててのけさまにたをれぬ矢をぬきてみるにうる/下101ウy456 はしく戦なとする時のやうにもあらすちり斗の物なりこれを 此海賊ともみてややこれはうちある矢にもあらさりけり神箭 なりけりといひてとくとくをのをのこきもとりねとて逃にけりそ の時門部府生うすわらひてなにかしらかまへにはあふなくたつ やつ原かなといひて袖うちおろしてこつはきはきてゐたりけり海 賊さはき逃ける程に袋一なと少々物共おとしたりける海に うかひたりけれは此府生とりて笑てゐたりけるとか/下102オy457