宇治拾遺物語 ====== 第129話(巻11・第5話)白河法皇、北面受領の下りのまねの事 ====== **白河法皇北面受領ノ下リノマネノ事** **白河法皇、北面受領の下りのまねの事** ===== 校訂本文 ===== これも今は昔、白河法皇((白河天皇))、鳥羽殿におはしましけるとき、北面(きたおもて)の者どもに、「受領の国へ下るまねせさせて、御覧あるべし」とて、玄蕃頭(げんばのかみ)久孝といふものをなして、衣冠に衣出だして、そのほかの五位どもをば前駆せさせ、衛府どもをば、胡籙(やなぐひ)負ひにして、「御覧あるべし」とて、おのおの、錦・唐綾を着て、劣らじとしけるに、左衛門尉源行遠、心ことに出で立ちて、「人にかねて見えなば、目慣れぬべし」とて、御所近かりける人の家に入り居て、従者を呼びて、「やうれ、御所の辺にて、見て来(こ)」と言ひて、参らせてけり。 無期(むご)に見ざりければ、「いかにかうは遅きにか」と、「辰の時とこそ催しはありしか、下がるといふ定(ぢやう)、午未の時には渡らんずらんものを」と思ひて、侍ち居たるに、門の方に声して、「あはれ、ゆゆしかりつるものかな、ゆゆしかりつるものかな」と言へども、「ただ、参る者を言ふらん」と思ふほどに、「玄蕃殿の国司姿こそ、をかしかりつれ」と言ふ。「左衛門尉殿は、錦を着給ひつ」、「源兵衛殿は、縫物をして、金の文をつけて」など語る。 あやしう思えて、「やうれ」と呼べば、この「見て来」とてやりつる男、笑みて出で来て、「おほかた、かばかりの見物候はず。賀茂祭も、ものにても候はず。院の桟敷の方へ、渡し合ひ給ひたりつるさまは、目も及び候はず」と言ふ。「さて、いかに」と言へば、「はやう果て候ひぬ」と言ふ。「こはいかに、来ては告ぬぞ」と言へば、「こはいかなることにか候ふらん。『参りて、見て来』と仰せ候へば、目も叩かず、よく見て候ふぞかし」と言ふ。おほかた、とかく言ふばかりなし。 さるほどに、「行遠は進奉不参。かへすがへす奇怪なり。たしかに召し籠めよ」と仰せ下されて、二十日あまり候ひけるほどに、この次第を聞こし召して、笑はせおはしましてぞ、召し籠めは許(ゆ)りてけるとか。 ===== 翻刻 ===== これも今は昔白川法皇鳥羽殿におはしましけるとき北おもて の者ともに受領の国へくたるまねせさせて御覧あるへしとて 玄蕃頭久孝といふものをなして衣冠にきぬいたしてその ほかの五位ともをは前駆せさせ衛府共をはやなくひをひに して御覧あるへしとてをのをの錦唐綾をきておとらしと しけるに左衛門尉源行遠心ことに出立て人にかねてみえ/下41オy335 なは目なれぬへしとて御所近かりける人の家に入ゐて 従者をよひてやうれ御所の辺にて見てこといひてまいらせ てけりむこに見さりけれはいかにかうはをそきにかと辰の時 とこそ催しはありしかさかるといふ定午未の時にはわたらんす らん物をと思て侍居たるに門の方に声してあはれゆゆしかり つる物かなゆゆしかりつる物かなといへともたたまいる者をいふらんと思程に玄蕃 殿の国司姿こそおかしかりつれといふ左衛門尉殿は錦をき 給つ源兵衛殿は縫物をして金の文をつけてなとかたるあや しうおほえてやうれとよへは此みてことてやりつる男えみて出 きて大方かはかりの見物候はす賀茂祭も物にても候はす院 の桟敷のかたへわたしあひ給たりつるさまは目も及さふらはす といふさていかにといへははやうはて候ぬといふこはいかにきて は告ぬそといへはこはいかなる事にかさふらふらんまいりてみてこと/下41ウy336 仰候へは目もたたかすよくみてさふらふそかしといふ大かたとかく いふはかりなしさるほとに行遠は進奉不参返々奇怪なりたし かにめしこめよと仰下されて廿日あまり候ける程に此次第 をきこしめしてわらはせおはしましてそめしこめはゆりてけるとか/下42オy337