宇治拾遺物語 ====== 第36話(巻3・第4話) 山伏舟を祈返へす事====== **山伏舟祈返事** **山伏舟を祈返へす事** ===== 校訂本文 ===== これも今は昔、越前国、かぶらきの渡(わたり)といふ所に、「渡りせむ」とて、者ども集まりたるに、山伏あり。けいたう房といふ僧なりけり。熊野・御嶽はいふに及ばず、白山・伯耆の大山、出雲の鰐淵、おほかた修行し残したる所なかりけり。 それに、このかぶらきの渡に行きて、渡らむとするに、渡りせんとする者、雲霞のごとし。おのおの物をとりて渡す。このけいたう房、「渡せ」と言ふに、渡し守、聞きも入れで、漕ぎ出づ。その時に、この山伏、「いかに、かくは無下にはあるぞ」と言へども、おほかた耳にも聞き入れずして、漕ぎ出だす。 その時に、けいたう房、歯を食ひ合はせて、念珠をもみちぎる。この渡し守、見返りて「をこのこと」と思ひたる気色にて、三・四町ばかり行くを、けいたう房、見やりて、足を砂子(すなご)に、脛(はぎ)のなからばかり踏み入れて、目も赤く、にらみなして、数珠(ずず)を砕けぬともみちぎりて、「召し返せ、召し返せ」と叫ぶ。 なほ行き過ぐる時に、けいたう房、袈裟と念珠とを取り合はせて、汀近く歩み寄りて、「護法、召し返せ。召し返さずは、ながく三宝に別れ奉らん」と叫びて、この袈裟を海に投げ入れんとす。それを見て、この集ひ居たる者ども、色を失なひて立てり。 かく言ふほどに、風も吹かぬに、この川舟のこなたへ寄り来(く)。それを見て、けいたう房、「寄るめるは、寄るめるは。はやう出でおはせ、出でおはせ」と、すはなちをして、見る者、色をたがへたり。 かくいふほどに、一町が内に寄り来たり。その時、けいたう房「さて、今はうち返せ、うち返せ」と叫ぶ。その時に集ひて見る者ども、一声(こゑ)に、「無慙(むざう)の申しやうかな。ゆゆしき罪に候ふ。さて、おはしませ、おはしませ」といふ時、けいたう房、今少し気色変りて、「はやうち返し給へ」と叫ぶ時に、この渡し舟に二十余人の渡る者、づぶりと投げ返しぬ。 その時、けいたう房、汗を押しのごひて、「あな、いたのやつばらや。まだ知らぬか」と言ひて、立ち帰りにけり。 世の末なれども、三宝おはしましけりとなむ。 ===== 翻刻 ===== これも今は昔越前国かふらきのわたりといふ所にわたりせむとて物 ともあつまりたるに山伏ありけいたう房といふ僧なりけり熊野み たけは云に及はす白山伯耆の大山出雲のわにふち大かた修行し残したる所/44オy91 なかりけりそれにこのかふらきの渡に行てわたらむとするに渡せんとする物 雲霞のことしをのをの物をとりてわたすこのけいたう房わたせといふに わたし守ききもいれてこき出その時にこの山臥いかにかくは無下にはあるそ といへとも大かた耳にもききいれすしてこき出す其時にけいたう房歯を くひあはせて念珠をもみちきる此わたし守みかへりてをこの事と思たるけし きにて三四町はかりゆくをけいたう房みやりて足をすなこにはきのなから 斗ふみ入て目もあかくにらみなしてすすをくたけぬともみちきりてめし 返せめし返せとさけふ猶行過る時にけいたう房袈裟と念珠とをとり合て 汀ちかくあゆみよりて護法取返せめしかへさすはなかく三宝に別たてまつ らんとさけひてこの袈裟を海になけ入んとすそれをみて此つとひゐ たる物とも色をうしなひてたてりかくいふほとに風もふかぬにこの川舟の こなたへよりくそれをみてけいたう房よるめるはよるめるははやう出おはせ出おはせとす はなちをしてみる者色をたかへたりかくいふ程に一町か内によりきたり その時けいたう房さて今はうちかへせうちかへせとさけふその時につとひてみる/44ウy92 物とも一こゑにむさうの申やうかなゆゆしき罪に候さておはしませおはしませといふ 時けいたう房今すこしけしきかはりてはや打返し給へとさけふ時に 此渡舟に廿余人のわたるものつふりとなけ返しぬその時けいたう房あ せををしのこひてあないたのやつ原やまたしらぬかといひて立帰 にけり世のすゑなれとも三宝おはしましけりとなむ/45オy93