宇治拾遺物語 ====== 第10話(巻1・第10話)秦兼久、通俊卿の許に向ひて悪口の事 ====== **秦兼久向通俊卿許悪口事** **秦兼久、通俊卿の許に向ひて悪口の事** ===== 校訂本文 ===== これも今は昔、治部卿通俊卿((藤原通俊))、後拾遺((後拾遺和歌集))を撰ばれける時、秦兼久((『金葉集』『袋草紙』『今物語』によると秦兼方(兼久の父)。))、行き向ひて、「おのづから、歌などや入る」と思ひて、うかがひけるに、治部卿、出で会ひて、物語して、「いかなる歌か詠みたる」と言はれければ、「はかばかしき歌候はず。後三条院((後三条天皇))、隠れさせ給ひて後、円宗寺に参りて候ひしに、花の匂ひ、昔にも変らず侍りしかば、つかうまつりて候ひしなり」とて、   「去年(こぞ)見しに色も変らず咲きにけり花こそものは思はざりけれ とこそ、つかまつりて候ひしか」と言ひければ、通俊卿、「よろしく詠みたり。ただし『けれ・けり・ける』などいふことは、いとしもなき言葉なり。それはさることにて、『花こそ』といふ文字こそ、女の童などの名にしつべけれ」とて、いともほめられざりければ、言葉少なにて、立ちて、侍(さぶらひ)どもありける所に寄りて、「この殿は、おほかた、歌のありさま知り給はぬにこそ。かかる人の、撰集承りておはするは、あさましきことかな。四条大納言((藤原公任))の歌に、   春来てぞ人も問ひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ と詠み給へるは、めでたき歌とて、世の人口(ひとぐち)にのりて申すめるは。その歌に、『人も問ひける』とあり、また『宿のあるじなりけれ』とあめるは。『花こそ』と言ひたるは、それには同じさまなるに、いかなれば、四条大納言のはめでたくて、兼久がは悪(わろ)かるべきぞ。かかる人の撰集承はりて撰び給ふ、あさましきことなり」と言ひて出でにけり。 侍、通俊のもとへ行きて、「兼久こそ、かうかう申して、出でぬれ」と語りければ、治部卿、うちうなづきて、「さりけりさりけり、物な言ひそ」とぞ言はれける。 ===== 翻刻 ===== これも今は昔治部卿通俊卿後拾遺をえらはれける時秦兼 久行向てをのつから歌なとやいると思てうかかひけるに治部卿 いてあひて物かたりしていかなる歌かよみたるといはれけれははかはか しき歌候はす後三条院かくれさせ給てのち円宗寺にまいり て候しに花の匂いむかしにもかはらす侍りしかはつかうまつりて候しなりとて こそみしに色もかはらすさきにけり花こそ物はおもはさりけれ とこそ仕つりて候しかといひけれは通俊卿よろしくよみたりたたし けれけりけるなといふ事はいとしもなきこと葉なりそれはさること にて花こそといふ文字こそめのわらはなとの名にしつへけれとて いともほめられさりけれはこと葉すくなにて立て侍ともあり ける所によりて此殿は大かた歌のありさましり給はぬにこそかかる 人の撰集うけ給ておはするはあさましき事哉四条大納言の歌に/14オy31 春きてそ人も問ける山里は花こそやとのあるしなりけれ とよみ給へるはめてたき歌とて世の人くちにのりて申めるは その歌に人もとひけるとあり又やとのあるしなりけれとあめる は花こそといひたるはそれにはおなしさまなるにいかなれは四条 大納言のはめてたくて兼久かはわろかるへきそかかる人の撰集 うけたまはりてえらひ給あさましき事也といひて出にけり さふらひ通俊のもとへ行て兼久こそかうかう申て出ぬれとかたり けれは治部卿うちうなつきてさりけりさりけり物ないひそとそいはれける/14ウy32