とはずがたり ====== 巻1 31 二月の十日宵のほどにその気色出で来たれば・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== [[towazu1-30|<>]] 二月(きさらぎ)の十日宵のほどに、その気色出で来たれば、御所ざまも御心むつかしき折から、私(わたくし)もかかる思ひのほどなれば、よろづ栄えなき折なれど、隆顕の大納言((四条隆顕))とり沙汰して、とかく言ひ騒ぐ。御所よりも御室((仁和寺の性助法親王))へ申されて、御本坊にて愛染王(あいぜんわう)の法、鳴滝((隆助))、延命供(ゑんめいく)とかや、毘沙門堂(びさもんだう)の僧正((経海))、薬師の法、いづれも本坊にて行なはる。わが方ざまにて、親源法印、聖観音の法行なはせなど、心ばかりは営む。七条の道朝僧正、折節峰((大峰山))より出でられたりしが、「故大納言((作者父、久我雅忠))、心苦しきことに言ひ置かれしも忘れがたし」とておはしたり。 夜中ばかりより、ことにわづらはしくなりたり。叔母の京極殿、使ひとておはしなど、心ばかりはひしめく。兵部卿((四条隆親))もおはしなどしたるも、「あらましかば」と思ふ涙は、人 に寄りかかりて、ちとまどろみたるに、昔ながらに変らぬ姿にて、心苦しげにて、後ろの方へ立ち寄るやうにすと思ふほどに、「皇子誕生」と申すべきにや、事故(ことゆへ)なくなりぬるはめでたけれども、それにつけても、「わがあやまちの行く末いかかならん」と、今始めたることのやうに、いとあさましきに、御佩刀(はかせ)など忍びたるさまながら、御験者(げんじや)の禄(ろく)など、ことごとしからぬさまに、隆顕ぞ沙汰し侍りし。 「昔ながらにてあらましかば、河崎の宿所などにてこそあらましか」など、よろづ思ひつづけらるるに、御乳(ち)の人が装束など、いつしか隆顕沙汰して、御弦打(つるう)ち、いしいしのことまで、数々見ゆるにつけても、あはれ、今年は夢沙汰にて年も暮れぬるにこそ。晴れがましく、わびしかりしは((「びびしかりしは」(角川)とする説もある。))、ゆめのきすゆつち((「夢の疵、乳付(ちつ)け」(新大系)・「夢の疵、弓弦討(ゆづち)」(集成)・「夢の事ゆへに」(角川)などの説がある。))。よろづの人に身を出だして見せしことぞ。 [[towazu1-30|<>]] ===== 翻刻 ===== へちにしるし侍れはこれにはもらしぬきさらきの十日よゐ の程にその気色いてきたれは御所さまも御心むつ かしきおりからわたくしもかかる思の程なれはよろつはへ なきをりなれとたかあきの大納言とりさたしてとかく いひさはく御所よりも御むろへ申されて御本坊にてあい せんわうの法なるたきゑんめいくとかやひさもん堂の 僧正薬師の法いつれも本坊にてをこなはる我かたさまに てしん源法印しやう観音の法をこなはせなと心はかりは いとなむ七条の道てう僧正おりふしみねより出られたりし かこ大納言心くるしきことにいひをかれしもわすれかたしとて おはしたり夜中はかりよりことにわつらはしく成たり/s41r k1-72 をはの京極殿つかひとておはしなと心はかりはひしめく 兵部卿もおはしなとしたるもあらましかはとおもふ涙は人 によりかかりてちとまとろみたるにむかしなからにかは らぬすかたにて心くるしけにてうしろのかたへ立よる やうにすと思ほとに皇子たんしやうと申へきにやこと ゆへなくなりぬるはめてたけれともそれにつけても我あや まちの行すゑいかかならんといまはしめたる事のやうに いとあさましきに御はかせなと忍たるさまなから御けん しやのろくなとことことしからぬさまにたかあきそさ たし侍しむかしなからにてあらましかはかはさきの宿所 なとにてこそあらましかなとよろつ思つつけらるるに/s41l k1-73 http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/41 御ちの人かしやうそくなといつしかたかあきさたして 御つるうちいしいしの事まてかすかすみゆるにつけて もあはれことしは夢さたにてとしもくれぬるにこそはれ かましくわひしかりしはゆめのきすゆつちよろつ の人に身をいたして見せしことそ神のりやうもさし/s42r k1-74 http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/42 [[towazu1-30|<>]]