沙石集 ====== 巻8第13話(106) 執心の堅固なるも仏法によりて臈る事 ====== ===== 校訂本文 ===== 常州に、ある入道法師の念仏の行者なるありけり。去んぬる弘安元年の疫癘(えきれい)に、臨終心よからずして死す。火葬にして見るに、堅き物、手取りの勢にて、おほかた焼けぬ物あり。堅木(かたき)をもて焼けども焼けず。炭多くそへて焼くに、灰白くなるまで焼けず。 子息の僧、これを見て、「執心の固まりて焼けぬにや。いかなる腹病なりとも、この炭木には焼くべし。あやし」と思ひて、昔、天竺に外道ありけり、常見を起こして、石になりてありけるを、仏弟子、量を立てて、石の面に書くによりて、石吠え割れて失せにけり。このこと思ひよりて、「かの文は覚えねども、執心のとらくることやある」と思ひて、幡(はた)の足の紙に、諸行無常の四句の文を書きて、堅き物の上に投げかくる。 「すでに消えかかりたる炭の火、この紙に燃え付きて、油をかけたるやうに、へらへらと焼けて、跡なく失せにし」と、かの僧、まのあたり物語りて、かの昔の、量立てたる文を尋ね申すこと侍りき。 末代なれども、仏法の功能めでたくこそ侍(はんべ)れ。まして、まことしく観念・座禅もせん人、執心もとらけ、罪障も消えんこと、疑ふべからず。 「量を立つ」といふは、因明の法門なり。外道を破することは、因明の道理なり。宗・因・喩の三つをもつて、義理を成ずるなり。劫毘羅外道、常見を起こして、大きなる石になれりしを、陳那菩薩(ぢんなぼさつ)、量を立てて石に書き付く。石吠え破れて失せにき。 「汝我無常(汝も我も無常なり)**宗**。受外行故(外行を受くる故に)**因**。尚如聚雲(なほ聚雲の如し)**喩**。」。声論外道も、「声は色形なし、常住の法なり」と計せしを、仏弟子、量を立てていはく、「声是無常(声は是無常なり)**宗**。作所成故(作る所成るが故に)**因**。猶如瓶等(なほ瓶等の如し)**喩**。」 先年、南都に侍りしに、ある人の物語に、故明慧上人((明恵))の、「われらは犬時者なり」とて、非時に菓子など召しけると申し候ふを、何とも思ひよらず侍りしほどに、信濃国の山里をことの縁ありて越え侍りし時、犬辛夷(いぬこぶし)の花を見て、このこと心得て侍りき。「悟道得法もかくや」と思え侍りしかば、南都に遊びなれて侍(はんべ)りし同法のもとへ、量を立てて一首送りたること侍りき。思ひ出でて侍(はんべ)るままに、いたづらごとなれども、書き給へり。 我是犬時者(我はこれ犬時者なり)**宗**。形似非実故(形は似るも実に非ざる故に)**因**。猶如犬辛夷(なほ犬辛夷の如し)**喩**。   猿似なる木律僧をば離れつつ犬時者にもやなりにけるかな おのづから事の道理をいらへば、自然に因明の法門になること侍り。人の愚かなるを、「汝是愚痴也(汝はこれ愚痴なり)**宗**。無智慧故(智慧無き故に)**因**。猶如畜生(なほ畜生の如し)**喩**」。 因明といふは、五明((「五明」は底本「正明」。文脈により訂正。))の一つなり。菩薩、「この五つを明らむ((「明らむ」は底本「明ヨム」。文脈により訂正。))べし」と言ふ。因明外道法・内明仏法・声明・医法明・工巧明なり。 遠州に蓮養房といふ山寺法師、前栽に柿木を植ゑて、年ごろ愛しけるが、他界の後、弟子の僧、「この木を切りて湯木にせん」とて割りて見るに、文字の勢二寸ばかりにて、「蓮養房」と文字あり。黒木のごとくして、木の中に、割れども割れども同体にてありけり。これも執心ありけるにや。 和州のある山寺法師、竹を愛して、惜しみ持つに、笋の時、われも食はず、人にも与へずして、病死して後、中陰に、弟子ども笋を取りて、「僧膳の菜(さい)の汁にせん」とて割りて見るに、黒虫多かりけり。師、妄念ゆゑに虫となりたるよし、夢に見えけるとなん言へり。 昔も橘の木を愛して、蛇となりて、まとひけることあり。また、銭入れたる瓶の中に、小蛇になりてあること、申す伝へたり。執心・妄念、恐るべし、恐るべし。流転生死の咎(とが)これなり。 ===== 翻刻 =====   執心之堅固由仏法臈事 常州ニ或入道法師ノ念仏ノ行者ナル有ケリ去弘安元年 ノ疫癘ニ臨終心ヨカラスシテ死ス火葬ニシテ見ルニ堅物手取ノ 勢ニテ大方ヤケヌ物アリ堅木ヲモテヤケ共ヤケス炭多ソヘテヤ クニ灰白クナルマテヤケス子息ノ僧是ヲ見テ執心ノカタマリテ/k8-311r ヤケヌニヤイカナル腹病ナリトモ此炭木ニハヤクヘシアヤシト思 テ昔シ天竺ニ外道アリケリ常見ヲ起シテ石ニ成テ有ケルヲ仏 弟子量ヲ立テ石ノ面ニ書ニヨリテ石ホヘワレテウセニケリ此 事思ヨリテ彼文ハ覚ヱネ共執心ノトラクル事ヤ有ト思テ幡 ノ足ノ紙ニ諸行無常ノ四句ノ文ヲ書テ堅物ノ上ニナケカ クル既ニキヱカカリタルスミノ火此カミニモヱツキテ油ヲカケタ ルヤウニヘラヘラトヤケテアトナク失ニシト彼僧マノアタリ物語テ カノ昔ノ量立タル文ヲ尋申事侍キ末代ナレトモ仏法ノ功 能目出クコソハンヘレマシテマコトシク観念坐禅モセン人執心 モトラケ罪障モ消ン事ウタカフヘカラス量ヲ立ト云ハ因明ノ 法門也外道ヲ破スル事ハ因明ノ道理也宗因喩ノ三ヲ以 義理ヲ成スルナリ劫毘羅外道常見ヲ起シテ大ナル石ニナレ/k8-311l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=310&r=0&xywh=-2174%2C645%2C5375%2C3195 リシヲ陳那菩薩量ヲ立テ石ニカキツク石ホヘテ破テ失ニキ 汝我無常宗受外行故因尚如聚雲喩声論外道モ声ハ 色形ナシ常住ノ法也ト計セシヲ仏弟子量ヲ立テ云声是 無常宗作所成故因猶如瓶等喩先年南都ニ侍シニ或人 ノ物語ニ故明慧上人ノ我等ハ犬時者ナリトテ非時ニ菓 子ナト召ケルト申候ヲナニ共思ヨラス侍シ程ニ信濃国ノ山 里ヲ事ノ縁アリテ越侍シ時犬辛夷ノ花ヲ見テ此事心得テ 侍リキ悟道得法モカクヤト覚ヘ侍シカハ南都ニアソヒナレテ ハンヘリシ同法ノモトヘ量ヲ立テ一首送タル事侍キ思出テハ ンヘルママニ徒事ナレ共書侍給ヘリ我是犬時者宗形似 非実故因猶如犬辛夷喩   猿似ナル木律僧ヲハハナレツツ犬時者ニモヤナリニケルカナ/k8-312r ヲノツカラ事ノ道理ヲイラヘハ自然ニ因明ノ法門ニナルコト 侍リ人ノヲロカナルヲ汝ハ是愚痴也宗無智慧故因猶如 畜生喩因明ト云ハ正明ノ一ナリ菩薩コノ五ヲ明ヨムヘ シト云因明外道法内明仏法声明医法明工巧明也遠 州ニ蓮養房トイフ山寺法師前截ニ柿木ヲウヘテ年来愛 シケルカ他界ノ後弟子ノ僧コノ木ヲ切テ湯木ニセントテワリ テ見ルニ文字ノ勢二寸ハカリニテ蓮養房ト文字有黒木ノ コトクシテ木ノ中ニワレトモワレトモ同体ニテ有ケリ是モ執心有ケル ニヤ和州ノ或山寺法師竹ヲ愛シテ惜ミモツニ笋ノ時我モクハ ス人ニモアタヘスシテ病死シテ後中陰ニ弟子トモ笋ヲ取テ僧饍 ノ菜ノ汁ニセントテワリテミルニ黒虫オホカリケリ師妄念故ニ 虫ト成タルヨシ夢ニ見ヘケルトナン云リ昔モ橘ノ木ヲ愛シテ蛇/k8-312l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=311&r=0&xywh=-2123%2C459%2C5805%2C3451 ト成テマトヒケル事アリ又銭入タル鉼ノ中ニ小蛇ニ成テ有 事申伝タリ執心妄念オソルヘシオソルヘシ流転生死ノトカ是也/k8-313r https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=312&r=0&xywh=518%2C582%2C5375%2C3195