沙石集 ====== 巻8第10話(103) 不法にして真言の罰を蒙る事 ====== ===== 校訂本文 ===== ある僧、真言を習しが、灌頂もせずして、すでにしたるよしを師に申して、秘事を許されて、開き見るほどに、このこと自然(じねん)に師聞きて、かの書、責め返しつ。 真言の習ひ、いまだ伝授せざる法を披覧することは、「越三摩耶の失」とて無間の業となるなり。しかるに、この僧、この失をかへりみず、いまだせぬ灌頂を「しかじかの所にて、すでにとげたり」と言ひ、いまだその位にも至らぬ秘書を、偽りて開き見るほどに、いくほどなく病付て、苦痛おびただしくて、やがて目くれて、すべて見えず。つひに苦痛顛倒して命終しけり。まのあたり見たる同法、語り侍りき。 またある僧、内々濫行にして、愛染(あいぜん)の法に付きて、敬愛(きやうあい)の秘法を習ふ。かの相応物を赤色に染むるに、つやつや赤根(あかね)の色付かず。新しき絹の白きに、すべて付かざりけり。たしかなる同法、まのあたり見て申しき。 これは、仏法に真実の信心なく、出離の一大事を心ざさずして、世間の執着有相のために、悪しざまの心地にて行ぜんと思ひけるにや。相応物も色付かず、不思議なりけり。 真言に敬愛の法と申すも、仏法の真実を習ひ、本覚に冥(めう)する心地を開くを、敬愛と習ひ侍り。これらに付きては、仏法の深き習ひども侍るなり。これ真実の法門の立ち入る習ひなり。しかるに、世間の人の思ひあへり。男女の中らい思ひ合へるばかりを、敬愛なんど思ふ習はし侍り。それも真実仏法の敬愛の徳用、いづれにも渡ることは余薫にてこそ侍るに、ひとへにただ世間有相の思ひのみに取りなすこと、仏法の本意にあらざることなり。まことしく仏法に取り入らん人は、よくよく思ひ分け、めでたき法を卑しく軽(かろ)しめ思ふべからず。 この僧、内々濫行にて、甚深の秘法を、悪しきさまの心むけにて行ぜんと思けるにや、相応物の色付かざりけり。このことは、知人の尼公語り侍りき。 されば、当時も真言の功能あるべきなり。近代、真言の流に、「変成就の法((立川流を指すと考えられる。))」とて、不可思議の悪見の法門、多く流布す。仏法は大小権実・聖道浄土・顕密禅教、法門の義理まちまちなれども、諸悪莫作・衆善奉行の教への変ることなく、我相人相・執心執着を除くこと、すべて異義なきに、明師に相伝なき無智無道心の悪見の師、多く出で来て、諸法実相・一切仏法の言葉、悩即菩提・生死即涅槃の文ばかりを取りつめて、機法のあはひ、解行の分かれも知らず、「男女を両部の大日」なんど習ひて寄り合ふは、理智冥合なんど言ひなして、「不浄の行、すなはち密教の秘事修行」と習ひ伝へて、悪見邪念捨てがたくして、諸天の罰を蒙る。 仏陀の冥助なきのみにあらず。横死横難にあひ、多くは人に殺され、物に狂ひ、疫病やみ、自害し、臨終狂乱顛倒す。現世にも、中夭(ちゆうやう)にあひ冥加なく、後生には、さだめて無間地獄に落ちて出期なく、また仏法にあふことあるべからず。悲しむべし。はや、およそ真言の罰と言ふことはあるべからず。ただ邪見の科(とが)、おのれと招くなるべし。もしは、守護天等のとがめ給ふか。 よくよく師匠を選びて、正流の人、正見の師に会ひて習ひ修行すべし。末代は真言の利益、ことにめでたかるべし。また悪見世に多し。よくよくわきまへらるべし。 ===== 翻刻 =====   不法蒙真言之罰事 或僧真言ヲ習シカ灌頂モセスシテ既ニシタルヨシヲ師ニ申テ秘 事ヲユルサレテヒラキミル程ニ此事自然ニ師聞テ彼書セメ返 ツ真言ノ習未タ伝授セサル法ヲ披覧スル事ハ越三摩耶ノ 失トテ無間ノ業ト成ナリ然ニ此僧此失ヲカヘリミス未タセヌ 灌頂ヲシカシカノ所ニテ既ニトケタリト云ヒ未タ其位ニモイタ ラヌ秘書ヲイツハリテヒラキミルホトニイク程ナク病付テ苦/k8-301l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=300&r=0&xywh=-2026%2C573%2C5375%2C3195 痛オヒタタシクテヤカテ目クレテ都テ見ヘス遂ニ苦痛顛倒シテ 命終シケリマノアタリ見タル同法語リ侍キ又或僧内々濫 行ニシテ愛染ノ法ニ付テ敬愛ノ秘法ヲ習彼相応物ヲ赤色 ニ染ニツヤツヤ赤根ノ色ツカスアタラシキ絹ノ白キニスヘテツカサ リケリタシカナル同法マノアタリ見テ申キ是ハ仏法ニ真実ノ 信心ナク出離ノ一大事ヲ心ササスシテ世間ノ執著有相ノタ メニアシサマノ心地ニテ行セント思ケルニヤ相応物モ色ツカス 不思議也ケリ真言ニ敬愛ノ法ト申モ仏法ノ真実習本覚 ニ冥スル心地ヲヒラクヲ敬愛ト習侍リコレラニ付テハ仏法ノ フカキ習共侍也是真実ノ法門ノ立入習ナリ然ルニ世間ノ 人ノ思ヒ相ヘリ男女ノ中ライ思アヘルハカリヲ敬愛ナント思 ナラハシ侍ソレモ真実仏法ノ敬愛ノ徳用何レニモ渡ル事ハ/k8-302r 餘薫ニテコソ侍ニヒトヘニ只世間有相ノ思ノミニ取ナス事 仏法ノ本意ニアラサル事也マコトシク仏法ニ取入ラン人ハ 能々思ワケ目出キ法ヲイヤシク軽シメ思ヘカラス此僧内々濫 行ニテ甚深ノ秘法ヲアシキサマノ心ムケニテ行セント思ケルニ ヤ相応物ノ色ツカサリケリ此事ハ知人ノ尼公カタリ侍キサ レハ当時モ真言ノ功能有ヘキ也近代真言ノ流ニ変成就 ノ法トテ不可思議ノ悪見ノ法門多ク流布ス仏法ハ大小 権実聖道浄土顕密禅教法門ノ義理マチマチナレトモ諸悪 莫作衆善奉行ノ教ノ替コトナク我相人相執心執著ヲ除 クコト都テ異義ナキニ明師ニ相伝ナキ無智無道心ノ悪見 ノ師多ク出来テ諸法実相一切仏法ノ詞煩悩即菩提 生死即涅槃ノ文計ヲトリツメテ機法ノアハヒ解行ノワカレ/k8-302l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=301&r=0&xywh=-2044%2C512%2C5805%2C3451 モシラス男女ヲ両部ノ大日ナント習テヨリアフハ理智冥合 ナントイヒナシテ不浄ノ行即チ密教ノ秘事修行ト習伝テ悪 見邪念ステカタクシテ諸天ノ罰ヲ蒙ル仏陀ノ冥助ナキノミニ アラス横死横難ニアヒオホクハ人ニ殺サレ物ニ狂ヒ疫病ヤミ 自害シ臨終狂乱顛倒ス現世ニモ中夭ニアヒ冥加ナク後生 ニハサタメテ無間地獄ニオチテ出期ナク又仏法ニ遇コトア ルヘカラス可悲ハヤ凡ソ真言ノ罰ト云コトハアルヘカラスタタ 邪見ノトカヲノレトマネクナルヘシモシハ守護天等ノトカメ給 カ能々師匠ヲヱラヒテ正流ノ人正見ノ師ニアヒテ習修行ス ヘシ末代ハ真言ノ利益コトニ目出カルヘシ又悪見世ニ多シ ヨクヨクワキマヘラルヘシ/k8-303r https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=302&r=0&xywh=71%2C500%2C5805%2C3451