[[index.html|醒睡笑]] 巻4 聞こえた批判 ====== 11 京矢田の町に夫婦の人ありしが夫先に立ち妻歎きに明け暮れ・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== [[n_sesuisho4-010|<>]] 京矢田の町に、夫婦の人ありしが、夫(おつと)先に立ち、妻歎きに明け暮れ、一周忌も過ぎぬ。後家、惣領(そうりやう)の子とその妹(いもと)を呼び、亡き人のこと語り出だし、涙をおさへつつ、惣領に向かひて、「『御身ははや家をもうけ取り、譲りをも取りたれば、今この家と少しも残れるものを、妹の子に聟を取りて渡せ』との遺言なる」よし言ひければ、その子、「われはさせる譲りをも取らず。この家も財宝も、えこそやるまじき」と座敷を蹴立てて立ち去りし後、結句(けつく)家をうけ取らんといふ使を立つるゆゑに、老母腹を立て、「焼いては捨つると、やるまじきものを」とあれば、町衆あつかひに入り、さきに母の言ひ渡されたる筋目に教訓するも、ととのはず。 惣領、目安をしたため、所司代(しよしだい)へ出でにけり。伊賀守((板倉勝重))、そのおもむき、ねんごろに尋ね問ひて、対決に及ぶまでもなく大きに怒つて、「孝は百行の始めなれば、不孝百悪のもとひなるべし。たとひ母の言ふところ僻事(ひがこと)なりとも、孝の道を存ぜば、一人ある老母にしたがはぬことあらんや。諺(ことわざ)にも、『親ものに狂はば、子は囃(はや)すべし』と言ひならはせり。その上、これは母の理、至極(しごく)なり。亡父が遺言をそむくといひ、老母の命にしたがはざる不孝・不順(じゆん)の過(とが)といひ、かたがたもつて曲事(くせごと)なり。なんぢごときの者をそのまま洛中に置かば、また世の人にも悪行あらん。はやはや京を出でよ。延引(えんいん)せば、はからふべきことあり」との下知にて、言葉もなく失せ行きぬ。 [[n_sesuisho4-010|<>]] ===== 翻刻 ===== 一 京矢田の町に夫婦の人ありしか夫(おつと)さき   に立妻(つま)歎(なけき)にあけくれ一周忌も過ぬ後家(ごけ)   惣領(そうりやう)の子と其妹(いもと)をよひなき人の事かたり   出し涙をおさへつつ惣領にむかひて御身は   はや家をも請取(うけとり)譲(ゆつり)をも取たれは今この   家と少も残れるものを妹の子に聟(むこ)/n4-14r   をとりて渡(わた)せとの遺言なるよしいひけれ   ば其子我はさせる譲(ゆつり)をもとらす此家も   財宝(ざいほう)もえこそやるましきと座敷をけ   たてて立さりし後結句(けつく)家をうけとらんと   いふ使をたつるゆへに老母腹(はら)をたてやい   てはすつるとやるましき物をとあれは町衆   あつかひに入さきに母のいひわたされたるすぢ   めに教訓(けうくん)するもととのはす惣領目安(めやす)を認(したため)   所司代へ出にけり伊賀守其趣(おもむき)懇(ねんころ)に尋(たつね)/n4-14l   とひて対決(たいけつ)に及まてもなく大にいかつて   孝は百行の始なれは不孝百悪のもとひな   るへしたとひ母のいふ所僻事(ひかこと)也とも孝の道   を存せは独(ひとり)ある老母に随ぬ事あらんや諺(ことはさ)   にも親物にくるはは子ははやすへしといひな   らはせり其上是は母の理至極なり亡父(ぼうふ)   か遺言をそむくといひ老母の命にしたがは   さる不孝不順の過と云旁(かたかた)以曲(くせ)事也汝(なんぢ)ご   ときの者を其儘(まま)洛中にをかは又よの人にも/n4-15r   悪(あく)行あらん早々京を出よ延引せばはか   らふへき事ありとの下知にてこと葉もな   くうせ行ぬ/n4-15l