撰集抄 ====== 巻8第26話(101) 遍昭(歌) ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、遍昭僧正の、上東門院((藤原彰子))へ参り給へりけるに、今夜は御所にさぶらひ給ふべきよし、馬内侍して仰せられけるに、遍昭、「さしてなすべきこと侍り」とて、「まかり出でん」と言ふを、中務、「いかにとよ、御前の野辺の女郎花(をみなへし)をば、見過ごさせ給ふべき」と、をかしきさまに聞こえければ、遍昭、   女郎花多かる野辺にやどりせばあやなくあだの名をや立つべき と詠み給ひて、すでに立たれけるに、馬内侍、とりあへず、   花ゆゑもあだなる名をば流さじと聞けば袂(たもと)を引きもとどめず と詠み侍りけり。遍昭の歌、馬内侍・女院、御簾のうちにて聞こし召して、たとへんかたなくめでたがり給ひけるとぞ。 「花ゆゑに、野をなほなつかしみ、一夜(ひとよ)して、あだなる名をば我に残さむ」といふことは、柿本なり。しかるに、「野辺(のべ)に住居(すまゐ)しなば、あやなくあだの名を立てんことの、胸いたく思ゆるほどの、情なき心にしあらば、われも引きとどめて、また、あだなる名をば残さじものを」と返し侍りけるにこそ。 ===== 翻刻 ===== 昔遍昭僧正の上東門院へ参り給へりけるに今 夜は御所にさふらひ給へきよし馬内侍して仰ら れけるに遍昭さしてなすへきこと侍りとてまか りいてんと云を中務いかにとよ御前の野辺の女郎 花をは見すこさせ給へきとおかしきさまに聞え けれは遍昭 をみなへしおほかる野辺にやとりせは あやなくあたの名をやたつへき と読給てすてにたたれけるに馬内侍とりあへす/k253l 花ゆへもあたなる名をはなかさしと きけはたもとをひきもととめす とよみ侍りけり遍昭の哥馬内侍女院御簾の うちにてきこしめしてたとへんかたなく目出かり 給けるとそ花故に野をなをなつかしみひとよし てあたなる名をは我に残さむと云事は柿本な りしかるにのへにすま居しなはあやなくあたの 名をたてん事の胸いたく覚る程の情なき心に しあらは我もひきととめて又あたなるなをは のこさし物をと返し侍りけるにこそ/k254r