撰集抄 ====== 巻4第3話(28) 西道発心 ====== ===== 校訂本文 ===== 過ぎにしころ、紀伊国由良の岬を過ぎ侍りしに、渚近く釣船漕ぎ寄せて、四十(よそぢ)にかたぶき五十(いそぢ)ばかりに見え侍る男の、舟の内に泣き居たる侍り。 「いかなるわざを憂ふらん」と、あはれに思えて、深く水におり立ち、舟ばたに取りかかりて、「いかに、何をか歎くらん」と言ふに、この男、泣く泣く聞こゆるやう、「これは釣する者に侍り。ただ今、この浦にて、ことに大きなる亀の釣られて侍りつるを、殺さんとし侍りつるに、亀、左右の眼より紅の涙を流して、歎きける形の見え侍りつれば、あまりに悲しくて、ゆるしてもとの所に放さんとし侍りつるを、連れの釣針にて目を突きて侍りつれば、くるべきまどひつるが、あまりに身にしみて悲しく思え侍り」とて、舟より飛び降りて、浜に上りて、「願はくは、頭おろして得させよ」と言ふを、「いかが」とためらひ侍りしかども、げに思ひ取りて見え侍りしかば、髪剃りて侍りき。 さて、「われにともなふべし」とて、それより具足して、高野・粉河参り歩(あり)きて、つひに都に上りて、西仙聖人の庵に引き付け、発心の因縁など語り奉りしかば、「あはれなることかな。堺は南西にかはるといへども、かれも釣人(つりうど)、われも釣人なるあはれさよ。よしよし、これにおはせよ」とて、行ひすまして侍り。今、めでたき後世者にて、西道となんいふめり。 ものの命((「命」は底本「哀」。諸本により訂正。))を惜しむことの、かはゆくも思えず、生ける類を殺すは、まことの罪とも知らざれはこそ、四十あまりまで、網引き釣し侍りけめ。いかなる亀の、今さら寄り来て、驚かぬ心をもよほしけん。血の涙流すわざなどは、まことに、時にとりて身に染むほどの事なれども、たちまちに憂き世をこりはてける心は、誰ばかりかはいまそかるべきと、げにただごととも思えず、「仏菩薩の、いささかのたよりにて、『善種をあらはすべき人』と見そなはかさせ給ひて、亀と化(け)して釣られましますにや」とまで思えて、そのこととなく、涙のこぼるるに侍り。 「地に倒るる者は、地によりて立つ」といふことあり。「まことなるかなや」と思えて侍り。釣人となりて倒(たう)れ果てぬと見えし人の、釣りによりて、生死の苦海を立ち離れぬる。されば、われらは、何によりて倒るるともなければ、また、何のゆゑに立つべしとも思えず。あはれ、「倒るる所を知りて、立ちなばや」と思えて侍り。 そもそも、生ける身の命を惜むこと、おしなべて、みな等しかるべし。ただ、宿報つたなくして、鳥獣となりぬれば、物を言はぬにばかされて、思ふ心の内をも知らずして、これを殺して、わが身の世を渡らんこと、かへすがへす愚かに無慙なるべし。 しかのみならず、これを食に用ゐる、また放逸なり。「まさしく生けるものなりしを」と思えたり。しかじ、鳥獣のたぐひを口に触れざらんには。これを食すればぞ殺す。殺せる罪((底本「殺せ」なし。諸本により補う。))、食する罪、みな積り集りて、この世はや過ぎ侍らんことの悲しさよ。ただ、物を多く食ひて、いたづらに過ぐるだにも、恐しきにや。 されば、舎利弗は、「一口二口食へ」とのたまひ、龍樹菩薩は、「粮(かて)少なくて、汗多し。いかにも慎しめ」と侍り。仏は、「一粒の米をはかるに、百のこうを用ゐたり」と侍り。さやうに多くの煩ひ積み重ぬる米を、日のうちに、いくらばかりか食し侍らん。これを食ひ、身を助けて、いくらばかりの聖教をか披(ひら)き見つると、かへすがへすあさましく侍り。 ===== 翻刻 ===== 過にし比紀伊国ゆらのみさきを過侍りしに 渚近く釣船漕寄て四そちにかたふき五そ ちはかりに見え侍る男の舟の内になき 居たる侍り何なる態をうれふらんと哀に 覚て深く水におり立舟はたに取懸てい かに何をか歎くらんと云に此男泣々聞ゆる 様是は釣する者に侍り只今この浦 にて殊に大なる亀のつられて侍りつるを 殺さんとし侍りつるに亀左右の眼より 紅のなみたをなかして歎けるかたちの/k92l 見え侍りつれはあまりに悲てゆるして 本の所にはなさんとし侍つるをつれの 釣はりにて目をつきて侍つれはくる へきまとゐつるか余に身にしみてかなしく 覚侍りとて舟よりとひおりてはまに あかりてねかはくはかしらおろしてえさせ よといふをいかかとためらい侍りしかともけに 思ひとりて見え侍りしかはかみそりて侍りき扨 我にともなふへしとてそれより具足して 高野粉川まいりありきて終に都に/k93r のほりて西仙聖人の庵に引付発心の 因縁なと語り奉りしかは哀なる事 かな堺は南西に替といへともかれも釣人 我もつりうとなる哀さよよしよし是に おはせよとて行すまして侍り今目出後 世者にて西道となん云めり物の哀をおし むことのかはゆくもおほえすいける類をころ すはまことの罪ともしらされはこそ四そちあ まりまて網引釣し侍りけめいかなる亀の 今更よりきておとろかぬ心をもよほしけん/k93l 血の涙なかすわさなとは実に時にとりて身に しむほとの事なれともたちまちにうき 世をこりはてける心はたれはかりかはいまそかるへ きとけにたた事ともおほえす仏菩薩 のいささかのたよりにて善種を顕はすへ き人と見そなはかさせ給て亀とけして つられましますにやとまて覚て其事 となく涙のこほるるに侍り地に倒るる物は 地に依て立と云事あり実なるかなやと 覚て侍り釣人と成てたうれはてぬと見え/k94r し人の釣に依て生死の苦海を立離れ ぬるされは我らは何に依て倒ともなけれは 又何のゆへに立へしとも覚すあはれ倒 るる所をしりて立なはやと覚て侍り抑 いける身の命を惜事をしなへて皆等しか るへし只宿報つたなくして鳥獣と成 ぬれは物をいはぬにはかされて思ふ心の うちをも不知して是をころして我身の 世を渡らん事返々をろかに無慙なるへし しかのみならす是を食にもちゐる又放/k94l 逸なりまさしくいける物なりしをと覚たり しかし鳥獣のたくひを口にふれさらんには 是を食すれはそ殺するつみ食つみみな 積集て此世はやすき侍らん事の悲さよ たた物をおほくくひていたつらに過たにも をそろしきにやされは舎利弗は一口二口 くへとの給ひ龍樹菩薩は粮すくなくてあせ 多しいかにもつつしめと侍り仏は一粒の米をはかる に百のこうを用たりと侍さ様におほくの 煩積重ぬる米を日のうちにいくらはかりか/k95r 食し侍らん是をくひ身をたすけていく ら斗の聖教をか披き見つるとかへすかへすあさ ましく侍り/k95l