撰集抄 ====== 巻3第5話(21) 三井寺法師隠居 ====== ===== 校訂本文 ===== いにしへ、丹波国大江山生野の里を過ぎ侍りしに、人里はるか離れて、道より東に五六町、山の中に入りて、庵結びて六十(むそぢ)ばかりに傾きたる僧いまそかりき。懸け樋(ひ)の水ばかり心すごく流れて、庵(いほ)の内澄みかへりて、着給ひつる麻の衣のほかは何も見え侍らず。 ことに貴く思えて、くはしく尋ね奉り侍りしかば、「昔、三井寺の学徒にて侍りしか、山((延暦寺))と寺((三井寺))と仲悪しきことのありて、山のために寺焼かれ侍りしかば、情けなく、あぢきなくて、まかり出で、国々迷ひ歩(あり)き侍りしほどに、今は年も傾きぬれば、この所になん住み侍り。当初(そのかみ)は里へ出で侍りしかども、今はまた惜しむべきほどにも侍らねば、あるにまかせて、里へも出で侍らねども、人の時々たづね来て、命を継ぐにあり」とぞ、のたまはせ侍りし。ゆゆしく、いさぎよく、澄みわたりて見え給はせ侍り。 げにも、北嶺((比叡山))の内には、山・寺とて、仏法も盛りに侍れば、教待和尚の、「三会の暁まであるべき寺なり」とて、智証大師((円珍))に譲り聞こえ給ひし、「まことなり」と思えて侍るに、多くの仏塔・法文・聖教、さながら煙とのぼりけんを見侍りけんは、さこそ悲しく侍りけめ。 法滅の道心、あはれにも、かしこくも侍るかな。悲しきかな、仮の世、あだなる身を知らずして、いつとなく我執をのみ横たへて、果てには寺をさへ滅ぼし侍らんことと。名を釈子に借り、姿を沙門になして、さきらをみがく人だにも、憂き世の中の習ひにて、戦陣の企て((「企て」は底本「余」。諸本により訂正))あり。まして、法文の至理をわきまへ侍らぬ人の、心まかせに振舞ひ侍らんは、理(ことはり)にぞ侍るべき。ただ、げにもひたすら思ひ離れずは、この苦はいまだはれじと、なほなほかしこく侍り。 そもそも、人の身にきはまりて苦しきは恨みなり。恨みは何より起るぞ。世にあるより起るものにこそ。世にあればこそ、望みはあれ。望みあればこそ、恨みはあれ。恨みあればぞ、瞋恨する。瞋恨すれはぞ、戦場する。 されば、心と苦を受けて、作り病せるは、これ世にある人にこそ。 ===== 翻刻 ===== 以往丹波国大江山いく野の里を過侍りしに人里 遥離て道より東に五六町山の中に入て庵結て 六そちはかりに傾たる僧いまそかりき懸ひの 水はかり心すこく流ていほの内すみ返てき給つる あさの衣の外は何も見え侍らす殊に貴く覚て/k70r 委く尋奉り侍りしかは昔三井寺の学徒にて侍り しか山と寺と中悪事の有て山のために寺やか れ侍りしかは情なくあちきなくて罷出国々迷ひ ありき侍りし程に今は年も傾きぬれは此所に なん住侍り当初は里へ出侍りしか共今は又おし むへき程にも侍らねは有に任て里へも出侍らね 共人の時々尋来て命を継に有とその給はせ 侍りしゆゆしくいさきよくすみ渡て見え給はせ 侍りけにも北嶺の内には山寺とて仏法もさかりに 侍れは教待和尚の三会の暁まて可有寺なり/k70l とて智証大師に譲り聞給し実なりと覚て 侍るに多の仏塔法文聖教さなから煙と登けん を見侍りけんはさこそかなしく侍りけめ法滅の道心 哀にも賢も侍るかな悲哉かりの世仇なる身を不 知していつとなく我執をのみよこたへてはてには 寺をさへほろほし侍らん事と名を尺子にかり姿を 沙門に成てさきらをみかく人たにもうき世の中の 習にて戦陣の余ありまして法文の至理を わきまへ侍らぬ人の心任に振舞侍らんは理にそ 侍るへき只けにもひたすら思離れすは此苦は未は/k71r れしと猶々かしこく侍り抑人の身にきはまり て苦きはうらみ也恨は何よりおこるそ世にあるより 起物にこそ世にあれはこそのそみはあれのそみあれは こそうらみはあれうらみあれはそ瞋恨する瞋恨す れはそ戦場するされは心と苦をうけて作病せる は是世にある人にこそ/k71l