撰集抄 ====== 巻2第5話(13) 雲林院聞説法発心 ====== ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、東の京に、いといたう貧しからず住みける男女ありけり。下れる品の人なるべし。 この男、ある時、雲林院の説法の侍りけるに、聴聞のために、かの庭に詣でてけり。導師、いひ知らずめでたく御法を説き侍れば、みな人々も、よよと泣くめり。この男の、いたく心を発(おこ)して、やがて家にも帰らずして、てづから髻(もとどり)切りて、東山の奥に、庵(いほり)かたばかり造りて、しづかに念仏し、ときどき里に出で、ものをなん乞ひ、わづかの物をも得侍りければ、それをなん用ゐて、また里に廻るわざもなんなかりけり。夜は必らず里を廻りて、高らかに((底本「高らからに」。諸本により訂正。))念仏し侍り。されば、夜を残す寝 覚の床には、あはれと情けをかけずといふことなし。 ある時、人のたづね行きて、「いかに、身の苦しきに、夜は歩(あり)き給ふにか。いも寝給はでは、疲れ給ふには侍らずや」と言ひければ、「そのことに侍り。昼はなにとなく、さる体(てい)なる女なんどを見侍るに、わがなじみたりし者の思ひ出ださるる時も侍り、幼き者を見る時は、ふり捨て出でし子の、おもかげに立ちて、いかにも乱れぬべく侍り。夜は、さやうのこともなし。心の澄み侍れば、廻るなり。廻らずとても、生死の無常の思はれて、寝(いね)もせられず侍れば、歩(あり)き侍るなり。さてまた、おのづから耳にもれて、『あはれ』と聞そなれし、一念随喜をもし、念仏をもし侍る人あらば、それをなん、他を利する心と((底本「心を」。諸本により訂正))せんと思ひ侍るにこそ」と申しければ、たづね行きける人も、袖をしぼりて、拝みつつ去にけり。 さて、三年はかり経て後に、三日まで里にも出ず侍るいぶせさよ。人々、まかりて侍りければ、西に向ひて手合はせてなん、息絶えにけり。あさましく、悲しく思えて、いそぎ人に触れなどして、来拝み侍りけるとなん。けに ありがたかりける心なり。下れる人は、いかにも情けの少なくて、たださしあたることのみを思ひて、後の世の罪をばさし放ちて、思はざるめるに、御法の心に染みて、さばかり身にかへて、いとほしくかなしき妻子を振り捨て、ふたたび見ずなりなん、ことに貴く思え侍る。また、『昼はなにわざにつけても、心の動きぬべく思ゆる』とて、いたく里にも出でざりけること、思ひ取り侍る心の中思ひやられて、いとどかしこく侍り。 さても、生死の無常の思はれて、いも寝られず侍りけん、身に入りて、貴くぞ思え侍る。世を捨つる人、多くいまそかれども、眠りは捨てがたく侍るに、無智なるあやしの心の、さほどに侍りけんことのありがたさ、やるかたなく侍り。 悲しきかな。昨日ありし人、今日はなし。朝(あした)に世路に誇るたぐひ、夕(ゆふべ)の白骨となり、月を詠(なが)むる友、たちまちのちに零落し、花にたづさふる族(やから)、むなしく風に誘はれて、跡なくなりぬる世間に、愚かに思ひを留めて、いたづらにわが身に積もる年月の、首(かうべ)は露の霜にかはりて、長月の末野の原の枯野の草にたぐへて、跡なくなりはてんとすることをも思はず、心のあるにまかせて、秋の長夜すがら、そのこととなく眠(ねぶ)りて、はかなき夢をのみ見て、むなしく月日を過ごさん、げにも心憂きわざなるべし。 されば、善導和尚は、「頭燃を拂ふがごとくにせよ」と勧め、恵心の僧都((源信))は、「あたかも眠りをしのげ」と侍り。今の僧のありさまこそ、これらの教へにかなひて侍れ。 あさましや、世を捨つといへども、心はこれを捨てず。袂(たもと)は染めぬれども、心は染まぬものにして、身・心、かたちがへにて、万行、いたづらになしはてぬることよ。しかあれば、「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」と、仏も教へ給ひつる、これなるべし。とにかくに、涙のすずろにしどろなるに侍り。 ===== 翻刻 ===== 中比東の京にいといたうまつしからすすみける男女 ありけり下れるしなの人なるへし此男ある時雲 林院の説法の侍りけるに聴聞の為に彼庭に 詣ててけり導師云しらす目出御法を説侍れ はみな人々もよよとなくめり此男のいたく心を発て やかて家にも帰らすして手自本とり切て東山 の奥に庵かたはかり造て閑に念仏し時々里に 出物をなん乞僅物をも得侍りけれは其をなん用て/k45r 又里に廻るわさもなんなかりけり夜は必里を 廻て高らからに念仏し侍りされは夜をのこす寝 覚の床には哀と情をかけすと云事なし或時人の たつね行ていかに身の苦しきに夜はありき給にか ゐもね給はてはつかれ給には侍らすやと云けれは 其事に侍り昼は無何さるていなる女なんとを見 侍るに我なしみたりしものの思出さるる時も侍り おさなきものをみる時は振捨出し子の俤に立て いかにも乱ぬへく侍り夜はさやうの事もなし心のすみ 侍れは廻也廻すとても生死の無常の思はれていね/k45l もせられす侍れはありき侍るなりさて又をのつから 耳にもれて哀れと聞そなれし一念随喜をもし 念仏をもし侍る人有は其をなん他を利する心をせん と思侍るにこそと申けれは尋行ける人も袖をしほり て拝つつ去にけりさて三年はかり経て後に三日まて 里にも出す侍いふせさよ人々まかりて侍りけれは西に 向て手合てなんいき絶にけり浅増悲しく覚て 急人に触なとして来をかみ侍りけるとなんけに 難有かりける心也下れる人はいかにも情のすくなくて たたさし当たる事のみを思て後の世の罪をはさし/k46r はなちて思はさるめるに御法の心にしみてさはかり 身にかへていと惜く悲き妻子を振捨て并ひ見す なりなん殊に貴く覚侍る又昼はなにわさに付 ても心の動きぬへく覚ゆるとていたく里にもいて さりける事思取侍る心の中おもひやられていとと かしこく侍りさても生死の無常のおもはれていも ねられす侍りけん身に入て貴そ覚侍る世を すつる人多いまそかれとも眠は捨かたく侍るに 無智なるあやしの心のさほとに侍けん事の難有 さやるかたなく侍り悲哉昨日有し人今日はなし/k46l 朝に世路に誇る類ひ夕への白骨と成月を詠 むる友忽後に零落し花にたつさふる族ら空 風に誘はれて跡なく成ぬる世間にをろかに思ひを留 ていたつらに我身に積る年月の首は露の霜に かはりて長月の末野のはらのかれのの草にたくへて 無跡なりはてんとする事をもおもはす心のあるに まかせて秋の長夜すから其事となくねふりてはかなき 夢をのみ見てむなしく月日を過さんけにも心憂 わさなるへしされは善導和尚は頭燃を拂かことくに せよとすすめ恵心の僧都はあたかも眠をしのけと侍り/k47r 今の僧の有さまこそこれらのをしへに叶て侍れ 浅ましや世をすつといへとも心は是をすてす袂は染ぬ れとも心はそまぬものにして身心かたちかへにて万 行いたつらになしはてぬる事よしかあれは心の師 とは成とも心を師とする事なかれと仏もをしへ給つる 是なるへしとにかくに涙のすすろにしとろなるに侍り/k47l