撰集抄 ====== 巻1第6話(6) 越後上村見====== ===== 校訂本文 ===== 過ぎにしころ、越後国したの上村といふかたに、まかり侍りたりしに、かの里は海のほとりにて、奥よりの津にて、貴賤集まりて、朝の市のごとし。 ただ、海の鱗(いろくづ)・山の木の実・布・絹のたぐひを売り買ふのみにあらず、人馬の族を売買せり。その中に、いとけなき、また、さかりなるは申すに及ばず、頭はしきりに霜雪をいただき、腰にはそぞろにあづさの弓を張りかがめて、今明とも知らぬ者の、「しばしのほどの命をたすけん」とて、そこばくの偽りをかまへ、人の心をたぶらかし売り買ひせるを((「を」底本なし。書諸本により補う。))、見侍りしに、すずろ涙のこぼれて侍りき。 空也上人の、山かげの寂寞の扉(とぼそ)を、「もの騒がし」と悲しみて。都の四条が辻を、さこそもの騒がしきに、「これこそ、閑かなれ」とて、筵(むしろ)・薦(こも)にて庵引き廻しておはしけん昔も、あはれに思ひ出だされ侍りて、とにかくに、悲しみの涙せきかねて侍りき。 世の中を何に喩へん。あさぼらけ、漕ぎ行く船の跡の白波の消ぬめるは、秋の田をほのかに照らす宵の稲妻の、やがて光の見えざんめるは。わづかに白波の立ちながら、光ほのめくにばかされて、年はいたく長(た)けぬれど、心は昔に変らで、思ひ入る念仏の功もなくして、はや無常の鬼に取られ侍らんこと、かへすがへす心憂く侍り。むなしく北邙((底本「北莣」。墓地を意味する「北邙」の誤とみて訂正。))の露と消えぬる夕べは、むつましかりし妻子、去りがたかりし親子も、抱(かか)へ持たんといふことや侍らん。ただ急ぎて野辺に送り、薪に積みて、一片の煙にたぐへては、むなしく横ぎる雲ばかりを恨み、朝(あした)に行きて別れし野辺を見れば、浅茅が原の秋風のみ身に入りて、わづかに名残と見ゆるは、形もなき白骨なり。 しかれば、われもはかなき身、人もあだなる世なり。それに思ひを染めて、とはぬまを、うらむさきの藤の花、なにとてまつにかかりそめけるぞと、仮の身に恨みを残し、あふことや涙の玉の緒となりけん、しばしたゆれば、落ちて乱るる憂さと悲しみて、仮の宿に思ひを増す、いとどはかなき愛着にぞ侍るべき。たまたま人界の生を受けて、あひがたき妙法にあくまてむつれ奉る時、十二因縁流転の環を切り、二十五有の生死のきづなをくり果て給ふべし。 さて、今生もの憂くて、はせ過ぎて、悪趣におもむきなば、億劫にも上りかたかるべし。昔、五戒十善の力により侍りて、悪趣のちまたを離れ侍りて、また、人界へ来たりとも、法灯末にのぞみて、風にほのめく時ならば、長夜の闇をも照らすことかたかるべし。法水終りて、この所に帰らば、生死の海の舟をよそへずしてこそ、また、悪趣へおもむき侍らんずらめと、悲しく思え((「え」は底本「に」。諸本により訂正))侍り。 およそ、六道四生の間、あそこここに徘徊し、ここに蹴躅して、少しも車の庭を巡るにたがはず。しばしもとどまるところには、生老病死、残害などの苦に責められ、すずろに浮世にほだされぬる。悲しとも申すもおろかなり。浮ぶとすれは沈み、沈むと思へば浮ぶ。浮ぶも浮ぶにあらず、沈むも沈むにあらず。ただ形をかへて巡れり。まことに果てしなかるべし。 ===== 翻刻 ===== 過にし比越後国したの上村と云方にまかり侍りたり しに彼里は海のほとりにて奥よりの津にて貴賤あつ まりて朝の市の如したた海の鱗山の木の実布 絹のたくひをうりかふのみに非ず人馬の族を売買せ/k18r り其中にいとけなき又さかりなるは不及申頭はしきりに 霜雪をいたたき腰にはそそろにあつさの弓をはりかかめて今 明とも不知物のしはしの程の命を資けんとてそこはく のいつはりを構人の心をたふらかし売買せる見侍りしに すすろ泪のこほれて侍りき空也上人の山かけの寂寞 の扉を物さはかしと悲て都の四条か辻をさこそ物さはかし きに是こそ閑なれとて筵こもにて庵引廻ておはしけん 昔も哀に思出され侍りてとにかくに悲の泪せきか ねて侍き世中を何にたとへんあさ朗漕行船 の迹の白波の消ぬめるは秋の田をほのかに照す/k18l 宵の稲妻のやかて光の見えさんめるは僅にしら波の 立なから光ほのめくにはかされて年はいたくたけ ぬれと心は昔に替らて思入る念仏の功もなくして はや無常の鬼にとられ侍らんこと返々心憂侍りむな しく北莣の露ときえぬる夕へはむつましかりし 妻子難去かりし親子もかかへもたんと云事や侍ら んたた急きて野辺に送り薪につみて一片 の烟にたくへては空しくよこきる雲はかりを うらみ朝に行て別れし野辺をみれは浅茅か 原の秋風のみ身に入て僅に名残とみゆるは/k19r 形もなき白骨也然は我もはかなき身人も仇なる 世也其に思ひを染てとはぬまをうらむさきの藤 の花何とて松にかかりそめけるそとかりの身に恨を 残しあふことや泪の玉のをとなりけんしはしたゆれは おちてみたるるうさと悲てかりのやとに思を増いとと はかなき愛着にそ侍るへきたまたま人界の生をうけて 難遇妙法にあくまてむつれ奉る時十二因縁流転 環をきり廿五有生死のきつなをくり果給へしさて 今生物憂てはせ過て悪趣におもむきなは億劫に もあかりかたかるへし昔五戒十善の力により侍りて/k19l 悪趣のちまたを離れ侍りて又人界へ来たりとも法灯 末に望て風にほのめく時ならは長夜の闇をも照 す事かたかるへし法水終て此所に帰は生死海の舟 をよそへすしてこそ又悪趣へおもむき侍らんすらめと 悲覚に侍り凡六道四生の間あそこここに徘徊し爰 に蹴躅してすこしも車の庭をめくるにたかはす しはしもととまる所には生老病死残害等の苦に 責られすすろに浮世にほたされぬる悲とも申もお ろか也浮ふとすれは沈み沈むとおもへは浮浮もう かふにあらす沈も沈にあらすたたかたちをかへてめくり/k20r 実にはてしなかるへし/k20l