無名抄 ====== 第83話 とこねの事 ====== ===== 校訂本文 ===== ** とこねの事((底本、標題なし。諸本によって補う。)) ** ある人いはく、「ある歌合に、五月雨の歌に、『こやの床寝(とこね)も浮きぬべきかな』と詠めり。しかあるを、清輔朝臣判者にて、『床寝といふ事、聞きよからず』とて負けたり。この道の博士なれども、このこと心劣りせらる。((底本、ここで改行))後撰にいはく、   竹近く夜床寝(よどこね)はせじ鶯の鳴く声聞けば朝寝(あさい)せられず と詠めり。この歌を思えざるにや」と云々。 この難、甚だ拙(つたな)し。すべて和歌の体を心得ざるなり。そのゆゑは、歌の習ひ、世に従ひて用ゐる姿あり。賞する詞(ことば)あり。しかあれば、古集歌とて、みなめでたしと仰(あふ)ぐべからず。これは古集を軽(かろ)むるにはあらず。時の風の異なるがゆゑなり。しかあれば、古集の中に様々の姿・詞、一偏ならず。その中に、今の世の風にかなへるをみはからひて、これを本として、かつはその体を習ひ、かつはその詞を盗むべきなり。かの後撰の歌、このごろならば、撰集に入るべくもあらず。題を賞せざるは、歌の大きなる失なり。おぼろげの秀逸にあらざれば、これを許さず。 次に「夜床寝はせじ」といひ、「朝寝せられず」といへる、姿・詞よろしからず。しかあるを、かの「夜床寝」といへる、さしもなき詞をとりて、なほ夜の字略して「床寝」といへる、まことに異様(ことやう)なる詞なり。これを後撰の威を借りて、僻難(ひがなん)と思へるは、よくこの道に暗きなり。 ===== 翻刻 ===== 或人云ある哥合に五月雨の哥にこやのとこねも うきぬへきかなとよめりしかあるを清輔朝臣 判者にてとこねといふ事ききよからすとて まけたりこのみちのはかせなれともこの事 心をとりせらる 後撰云 たけちかくよとこねはせしうくひすの なくこゑきけはあさひせられす/e82l とよめりこの哥をおほえさるにやと云々この難 はなはたつたなしすへて和哥の体を心えさる なりそのゆへは哥のならひ世にしたかひて もちゐるすかたあり賞することはありしか あれは古集哥とてみなめてたしとあふくへから すこれは古集をかろむるにはあらす時の風 のことなるかゆへなりしかあれは古集の 中にさまさまのすかたことは一偏ならす その中に今の世の風にかなへるをみはから ひてこれを本としてかつはその体をなら/e83r ひかつはそのことはをぬすむへきなりかの後撰 の哥このころならは撰集にいるへくもあらす 題をしやうせさるは哥のおほきなる失也 おほろけの秀逸にあらされはこれをゆる さすつきによとこねはせしといひあさゐ せられすといへるすかたことはよろしからす しかあるをかのよとこねといへるさしもなき ことはをとりてなを夜の字りやく してとこねといへるまことにこと やうなることはなりこれを後撰の威を/e83l かりてひかなんとおもへるはよくこの みちにくらきなり/e84r