無名抄 ====== 第72話 俊恵定歌体事 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 俊恵定歌体事 ** 俊恵いはく、「世の常のよき歌は、譬へば堅文(かたもむ)の織物のごとし。よく艶優れぬる歌は浮文(うきもん)の織物などを見るがごとく、そらに景気の浮かべるなり。   ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ   月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして これこそは、余情うち籠り、景気そらに浮びて侍れ。また、させる風情もなけれど、詞よく続けつれば、おのづから姿に飾られて、この徳を具することもあるべし。木工頭(むくのかみ)((藤原俊頼))の歌に、   鶉(うづら)鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮 これも違はぬ浮文に侍べし。ただし、よき詞を続けたれど、わざと求めたるやうになりぬるをば、また、失とすべし。ある人の歌に、   月冴ゆる氷の上に霰(あられ)降り心砕くる玉川はの里 これは譬へば、石を立つる人の、よき石をえ据ゑず((諸本、「得ず」))して、小き石どもを取り集めて、めでたくさし合はせつつ立てたれど、いかにもまことの多きなる石には劣れるやうに、わざとびたるが失にて侍るなり」。 またいはく、「匡房卿歌に、   白雲と見ゆるにしるしみよしのの吉野の山の花盛りかも これこそはよき歌の本とは思え侍れ。させる秀句もなく、飾れる詞もなけれど、姿麗しく清げにいひ下して、たけ高く、遠白きなり。譬へば、白き色の異なる匂ひもなけれど、もろもろの色にも優れたるがごとし。よろづのこと極まりてかしこきは、淡くすさまじきなり。この体は、やすきやうにて極めて難し。一文字も違ひなば、あやしの腰折れになりぬべし。いかにも境に入らずして詠み出で難き様なり」。 またいはく、「   心あらむ人に見せばや津の国の難波(なには)わたりの春の気色を これは始めの歌のやうに、限りなく遠白くなどはあらねど、優(いふ)深くたをよかなり。譬へは、能書の書ける仮名の、し文字などのごとし。させる点をば加へ、筆を振へる所もなけれど、ただ安らかに、こと少なにて、しかも妙なるなり」。 またいはく、「   思ひかね妹(いも)がりゆけば冬の夜の川風さむみ千鳥鳴くなり この歌ばかり面影ある類(たぐひ)はなし。『六月二十六日の寛算か日も、これをだに詠ずれば寒くなる』とぞ、ある人は申し侍りし。((底本、ここで改行する。)) 大方、優なる心・詞なれども、わざと求めたるやうに見ゆるは、歌にとりて失とすべし。ただ、結ばぬ峰の梢(こずゑ)、染めぬ野辺の草葉に、春秋につけて、花の色々を現はすがごとく、おのづから寄り来る事を、やすらかにいへるやうなるが秀歌にて侍るなり」。((底本、ここで改行。次の段落より次話とする本もあるが、底本には朱書の標題がない。)) 歌には故実の体といふことあり。よき風情を思ひ得ぬとき、心のたくみにて作り立つべきやうを習ふなり。 一には、させる事なけれど、ただ詞続き、匂ひ深くいひ流しつれば、よろしく聞こゆ。   風の音に秋の夜深く寝覚めして見果てぬ夢の名残をぞ思ふ 一には、古歌の詞のわりなきを取りて、をかしくいひなせる、またをかし。   わが背子をかた待つ宵の秋風は荻の上葉(うはば)をよきて吹かなん   狩人の朝伏す野辺の草若み隠ろひかねて雉子(きぎす)鳴くなり また、聞きよからぬ詞を面白く続けなせる、わざとも秀句となる。   播磨なる飾磨(しかま)に染むるあながちに人を恋ひしと思ふころかな   思ひ草葉末(はずゑ)に結ぶ白露のたまたまきては手にもたまらず 一には、秀句なれど((諸本「秀句ならねど」))、ただ詞遣ひ面白く続けつれば、また、見所(みどころ)あり。   〽((底本、朱書で庵点))あさてほすあづま乙女の萱筵(かやむしろ)敷き忍びても過すころかな   葦の屋の賤機帯(しづはたおび)の片結び心やすくもうち解くるかな   〽((底本、朱書で庵点))今ははや天の戸渡る月の舟また村雲に島隠れすな ===== 翻刻 ===== 俊恵定哥体事 俊恵云よのつねのよき哥はたとへはかたもむのおり 物のことしよく艶すくれぬる哥はうき文 のおり物なとをみるかことくそらに景気の うかへる也 ほのほのとあかしの浦のあさきりに しまかくれゆくふねをしそおもふ/e69l 月やあらぬ春やむかしのはるならぬ 我身ひとつはもとの身にして これこそは余情うちこもり景気そらにうかひて 侍れ又させる風情もなけれとことはよくつつけ つれはおのつからすかたにかさられてこの徳を くすることもあるへしむくのかみの哥に うつらなくまのの入江のはまかせに をはななみよるあきのゆふくれ これもたかはぬうき文に侍へしたたしよき ことはをつつけたれとわさともとめたるやうに/e70r なりぬるをは又失とすへしある人の哥に 月さゆるこほりのうへにあられふり 心くたくるたまかはのさと これはたとへは石をたつる人のよき石をゑすへ すしてちゐさき石ともをとりあつめてめてたく さしあはせつつたてたれといかにもまことのおほ きなるいしにはをとれるやうにわさとひたるか失 にて侍なり 又云匡房卿哥に しら雲とみゆるにしるしみよしのの よしのの山のはなさかりかも/e70l これこそはよき哥の本とはおほえ侍させる 秀句もなくかされることはもなけれとすかた うるはしくきよけにいひくたしてたけたかく とをしろき也たとへはしろき色のことなる にほひもなけれともろもろの色にもすくれたるか ことしよろつのこときはまりてかしこきは あはくすさましき也この体はやすきやうに てきはめてかたしひともしもたかひなはあやし のこしをれになりぬへしいかにもさかひに いらすしてよみいてかたきさまなり/e71r 又云 こころあらむ人にみせはや津の国の なにはわたりのはるのけしきを これははしめの哥のやうにかきりなくとをしろ くなとはあらねといふふかくたをよかなりたとへは 能書のかけるかなのしもしなとのことしさせ る点をはくわへふてをふるへる所もなけれと たたやすらかにことすくなにてしかもたへなる也 又云 おもひかねいもかりゆけは冬の夜の 河風さむみちとりなくなり/e71l この哥はかりおもかけあるたくひはなし六月廿六日 の寛算か日もこれをたに詠すれはさむく なるとそある人は申侍し おほかたいふなる心ことはなれともわさともとめたる やうにみゆるは哥にとりて失とすへしたたむす はぬみねのこすゑそめぬ野辺の草葉にはる あきにつけて花のいろいろをあらはすかことくおの つからよりくる事をやすらかにいへるやうなるか 秀哥にて侍なり 哥には故実の体といふことありよき風情をおも/e72r ひゑぬとき心のたくみにてつくりたつへきやうを ならふ也一にはさせる事なけれとたたことはつつ きにほひふかくいひなかしつれはよろしくきこゆ 風のおとに秋のよふかくねさめして みはてぬ夢のなこりをそおもふ 一には古哥のことはのわりなきをとりてをかしく いひなせる又をかし わかせこをかたまつよひのあき風は おきのうははをよきてふかなん かり人のあさふす野辺の草わかみ かくろひかねてききすなくなり/e72l 又ききよからぬことはをおもしろくつつけ なせるわさとも秀句となる はりまなるしかまにそむるあなかちに 人をこひしとおもふころかな おもひ草はすゑにむすふしら露の たまたまきては手にもたまらす 一には秀句なれとたたことはつかひをもしろく つつけつれは又みところあり 〽あさてほすあつまおとめのかやむしろ/e73r しきしのひてもすこすころかな あしのやのしつはたおひのかたむすひ 心やすくもうちとくるかな 〽今ははやあまのとわたる月のふね また村雲にしまかくれすな/e73l