無名抄 ====== 第70話 式部赤染勝劣事 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 式部赤染勝劣事 ** ある人いはく、「俊頼の髄脳に、定頼中納言・公任大納言に、式部((和泉式部))・赤染((赤染衛門))とが劣り勝りを問はる。大納言いはく、『式部は、『こやとも人をいふべきに』と詠める者なり。一つ口にいふべからず』と侍りければ、中納言重ねていはく、『式部が歌には『はるかに照らせ山の端((底本「葉」))の月』といふ歌をこそ、世の人は秀歌と申し侍るめれ』と言ふ。大納言いはく、『それぞ、世の人の知らぬ事をいふよ。暗きより暗きに入ることは、経の文なれば、いふにも及ばず。末の句は、また本(もと)に引かれて、易(やす)く詠まれぬべし。『こやとも人をいふべきに』といひて、『隙(ひま)こそなけれ葦の八重葺(やえぶ)き』といへるこそ、凡夫(ぼんぶ)の思ひ寄るべきことにもあらね』と答へられける由(よし)侍るめり((底本「はへめり」))。これに二つの不審あり。一には、式部を勝れる由、ことはられたれど、そのころのしかるべき会、晴の歌合などを見れば、赤染をばさかりに賞して、式部は漏れたること多かり。一には式部が二首の歌を今見れば、『はるかに照らせ』といふ歌は、詞(ことば)も姿も、ことの外(ほか)にたけ高く、また景気もあり。いかなれば、大納言は、しかことはられけるにや。かたがたおぼつかなくなん侍る」と言ふ。 予、試みにこれを会尺す。 式部・赤染が勝劣は、大納言一人定められたるにあらず。世こぞりて式部を優れたりと思へり。しかあれど人のしわさは、主(ぬし)のある世には、その人がらによりて劣り勝ることあり。歌の方(かた)は式部左右(さう)なき上手なれど、身のふるまひ、もてなし、心もちゐなどの、赤染には及びがたかりけるにや。 紫式部が日記といふ物を見侍りしかば、「和泉式部はけしからぬ方(かた)こそあれど、うちとけて文走り書きたるに、その方の才(ざへ)ある方も、はかなき言葉の匂いも見え侍るめり。歌はまことの歌詠みにはあらず。口に任せたることどもに、必ずをかしき一節(ひとふし)目留まる詠み添へ侍るめり。されど、人の詠みたらん歌難じことはりゐたらん、いでや、さまでは心得じ。ただ口に歌詠まるるなめり。恥づかしの歌詠みやとは思えず。丹波の守の北の方((赤染衛門))をば、宮殿など渡りには、『匡衡衛門』とぞ侍る。ことにやごとなきほどならねど、まことにゆへゆへしう歌詠みとて、よろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたる限りは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきに侍れ」と書けり。 かかれば、その時は人ざまにもち消たれて、歌の方も思ふばかり用ゐられねど、まことには上手なれば、秀歌も多く、ことに触れつつ間のなく詠み置くほどに、撰集どもにもあまた入れるにこそ。 曽祢好忠といふ者、人数にもあらず、円融院の子の日の御幸に推参をさへして、をこの名を上げたる者ぞかし。されど今は、歌の方にはやむごとなき者に思へり。一条院の御時、道々のさかりなることを江帥の記せる中にも、「歌詠みは、道信・実方・長能・輔親・式部・衛門・曽祢好忠」と、この七人をこそは記されて侍るめれ。これも、みづからによりて、生ける世には世覚えもなかりけるなるべし。 さて、式部は歌にとりての劣り勝りは、公任卿のことはりのいはれぬにもあらず、今の不審の僻事(ひがごと)なるにもあらず。これはよく心得て、思ひ分くべきことなり。 歌は作りたてたる風情・巧みはゆゆしけれど、その歌の品を定むるとき、さしもなきこともあり。また、思ひ寄れる所は及びがたくしもあらねど、うち聞くに、たけもあり、艶(えん)にも思えて、景気浮ぶ歌も侍りかし。されば詮は、歌詠みのほどを正(まさ)しく定めんには、「こやとも人を」といふ歌をとるとも、「式部が秀歌はいづれぞ」と選らむには、「はるかに照らせ」といふ歌の勝るべきにこそ。 たとへば、道のほとりにてなほざりに見付けたりとも、黄金は宝なるべし。いみじく巧みに作りたてたれど、櫛・針などの類(たぐひ)はさらに宝とするに足らず。また、心ばせをいはん日は、黄金求めたる。さらに主(ぬし)の高名にあらず。針の類、宝にあらねど、これを物の上手のしわざとは定むべきがごとくなり。 しかあれど、大納言のその心を会せらるべかりけるにや。もしはまた、歌の善悪も世々に変る物なれば、その世に「こやとも人を」といふ歌の勝る方もありけるを、すなはち人の心得ざりけるにや。後の人定むべし。 ===== 翻刻 ===== 式部赤染勝劣事 或人云俊頼の髄脳に定頼中納言公任大納言に しきふあかそめとかをとりまさりをとはる大納言 いはく式部はこやとも人をいふへきにとよめる物なり ひとつ口にいふへからすと侍けれは中納言かさねて 云式部か哥にははるかにてらせ山の葉の月と 云哥をこそ世の人は秀哥と申侍めれと云大納言 いはくそれそ世の人のしらぬ事をいふよくらき よりくらきに入ことは経の文なれはいふにもおよは すすゑの句は又もとにひかれてやすくよまれ/e57r ぬへしこやとも人をいふへきにといひてひまこそ なけれあしのやへふきといへるこそほんふのおもひ よるへきことにもあらねとこたへられけるよしはへ めりこれにふたつの不審あり一には式部をまされ るよしことはられたれとそのころのしかるへき会は れの哥合なとをみれはあかそめをはさかりにしやう して式部はもれたることおほかり一には式部か二 首の哥を今みれははるかにてらせといふ哥はことは もすかたもことのほかにたけたかく又けいきも ありいかなれは大納言はしかことはられけるにやかたかた/e57l おほつかなくなん侍といふ予心みにこれを会尺す 式部赤染か勝劣は大納言ひとりさためられたる にあらす世こそりて式部をすくれたりとおもへり しかあれと人のしわさはぬしのある世にはその人からに よりておとりまさることあり哥のかたは式部さう なき上手なれと身のふるまひもてなし心もちゐ なとのあかそめにはおよひかたかりけるにやむらさき 式部か日記といふ物をみ侍しかは和泉式部はけし からぬかたこそあれとうちとけてふみはしりかきたる にそのかたのさへあるかたもはかなきことはのにほひも/e58r みえ侍めり哥はまことの哥よみにはあらすくちに まかせたることともにかならすおかしきひとふしめ とまるよみそへ侍めりされと人のよみたらん哥なん しことはりゐたらんいてやさまては心えしたた くちに哥よまるるなめりはつかしの哥よみやとはおほえす 丹波のかみのきたの方をはみやとのなとわたりには まさひら衛門とそ侍ることにやことなきほとなら ねとまことにゆへゆへしう哥よみとてよろつのこと につけてよみちらさねときこえたるかきりははかな きおりふしのこともそれこそはつかしきくちつきに/e58l 侍れとかけりかかれはその時は人さまにもちけたれ て哥のかたもおもふはかりもちゐられねとまこと には上手なれは秀哥もおほくことにふれつつまの なくよみおくほとに撰集ともにもあまたいれるに こそそねのよしたたといふ物人かすにもあらす円 融院の子日の御幸に推参をさへしておこの 名をあけたる物そかしされと今は哥のかたには やむことなき物におもへり一条院の御時みちみち のさかりなることを江帥のしるせるなかにも哥よ みは道信実方長能輔親式部衛門/e59r 曽祢好忠とこの七人をこそはしるされて侍めれこ れもみつからによりていける世にはよおほえもなかり けるなるへしさて式部は哥にとりてのおとりまさ りは公任卿のことはりのいはれぬにもあらす今の 不審のひか事なるにもあらすこれはよく心えて 思ひわくへきことなり哥はつくりたてたる風情た くみはゆゆしけれとその哥のしなをさたむるとき さしもなきこともあり又思ひよれる所はおよひか たくしもあらねとうちきくにたけもありゑん にもおほえて景気うかふ哥も侍りかしされは/e59l 詮は哥よみのほとをまさしくさためんにはこや とも人をといふ哥をとるとも式部か秀哥はいつれ そとゑらむにははるかにてらせといふ哥のまさる へきにこそたとへはみちのほとりにてなをさりに みつけたりともこかねはたからなるへしいみしく たくみにつくりたてたれとくしはりなとのたく ひはさらにたからとするにたらす又心はせをい はん日はこかねもとめたるさらにぬしの高名に あらすはりのたくひたからにあらねとこれを物の 上手のしわさとはさたむへきかことくなりしかあれと/e60r 大納言のその心を会せらるへかりけるにやもしは 又哥の善悪も世々にかはる物なれはその世にこや とも人をといふ哥のまさる方もありけるをすなはち 人の心えさりけるにや後の人さたむへし/e60l