無名抄 ====== 第17話 井手の山吹、并かはづ ====== ===== 校訂本文 ===== ** 井での山ぶき并かはづ ** ある人語りていはく、「ことの縁ありて井手といふ所にまかりて、一宿つかまつりたること侍りき。所の有様、井手川の流れたる体、心も及び侍らず。かの井手の大臣の跡なれば理(ことわり)なれど、川に立ち並びたる石なども十余丁ばかり、さのみやは遠く立て置かれけん、石ごとに、ただなほざりの事とは見えず。わざと立てたるやうになん侍りし。そこに古老の者の侍りしを、語らひて、昔のことを尋ね侍しついでに、『井手の山吹とて名に流れたるを、いと見え侍らぬは、いづくにあるぞ』と尋ね侍りしかば、『さること侍り。かの井手の大臣の堂は一年(ひととせ)焼け侍りにき。その前におびただしく大きなる山吹、むらむら見え侍りき。その花の輪(りん)は小土器(こかわらけ)の大きさにて、幾重(いくへ)ともなく重なりてなん侍りし。それをさやうに申しおきて侍るにや。また、かの井手川の汀(みぎは)につきて隙(ひま)もなく侍りしかば、花の盛りには黄金の堤(つつみ)などを築(つ)き渡したらんやうにて、他所には優れてなん侍しかば、いづれを申しけるにか、今分きがたく侍り。ただし、下臈(げらふ)のいふかひなく侍ることは、かく名高き草とて所もおき侍らず、『田作るには草を刈り入れたるが、よく出で来る』と申して、何ともなくなん刈りて侍る((他本は「程に、今は跡もなくなむなりて侍る。」と続く))。それにとりて井手のかはづと申すことこそ、様(やう)あることにて侍れ。世の人の思ひて侍るは、『ただ蛙(かへる)をば、かはづといふぞ』と思ひて侍るめり。それも違ひ侍らず。されど、かはづと申す蛙は他にいづくに侍らず。ただ、この井手川にのみ侍るなり。色黒きやうにて、いと大きにもあらず。世の常の蛙のやうにして、現(あら)はに踊り歩(あり)く事などもいと侍らず。常には水にのみ棲みて、夜更くるほどに、かれか鳴きたるは、いみじく心澄み、物あはれなる声にてなん侍る。春夏のころ、必ずおはして聞き給へ」と申し侍りしかど、その後、とかくまぎれて、いまだ尋ね侍らず」となん語り侍りし。 この事心にしみて、いみじく思え侍りしかど、かひなくて、三年(みとせ)にはなり侍りぬ。また、年長けては歩びかなはずして、思ひながら、いまだかの声を聞かず。かの登蓮が雨もよに急ぎ出でけんには、たとしへなくなん。 これを思ふに、今より末ざまの人は、たとひおのづからことの便りありて、かしこに行き臨みたりとも、心とどめて聞かんと思へる人も少なかるべし。人の数寄と情けとは、年月を添へて衰へゆく故なり。 ===== 翻刻 ===== 井テノ山フキ并カハツ ある人かたりて云ことの縁ありて井てと云所にまかりて 一宿つかまつりたること侍き所のありさま井て河 のなかれたる体心もおよひ侍らすかの井ての大臣の あとなれはことはりなれと河にたちならひたる石な とも十余丁はかりさのみやはとをくたておかれけん/e19r いしことにたたなをさりの事とはみえすわさとたて たるやうになん侍しそこに古老のものの侍しをかた らひてむかしのことをたつね侍しついてにゐてのやま ふきとて名になかれたるをいとみえ侍ぬはいつくに あるそとたつね侍しかはさること侍り彼井ての大臣の 堂はひととせやけ侍にきそのまへにおひたたしく おほきなる山ふきむらむらみえ侍きその花のりんは こかわらけのおほきさにていくへともなくかさなりて なん侍しそれをさやうに申おきて侍にや又かの 井て河のみきわにつきてひまもなく侍しかは/e19l 花のさかりにはこかねのつつみなとをつきわたし たらんやうにて他所にはすくれてなん侍しかはいつ れを申けるにか今わきかたく侍りたたしけ らうのいふかひなく侍ることはかく名たかき草と て所もおき侍らす田つくるには草をかり入たるか よくいてくると申てなにともなくなんかりて侍る それにとりて井てのかはつと申ことこそやうある ことにて侍れ世の人のおもひて侍はたたかへるをは かはつといふそと思て侍めりそれもたかひ侍らす されとかはつと申かへるはほかにいつくに侍らす たたこの井て河にのみ侍なり色くろきやうに/e20r ていとおほきにもあらす世のつねのかへるの やうにしてあらはにおとりありく事なともいと 侍らすつねには水にのみすみて夜ふくるほとに かれかなきたるはいみしく心すみ物あはれなるこゑ にてなん侍春夏の比かならすおはしてきき給へと 申し侍しかと其後とかくまきれていまたたつね 侍らすとなんかたり侍しこの事心にしみていみし くおほえ侍しかとかひなくてみとせにはなり 侍ぬ又としたけてはあゆひかなはすしておもひ なからいまたかのこゑをきかすかの登蓮かあめも/e20l よにいそきいてけんにはたとしへなくなんこれ をおもふに今よりすゑさまの人はたとひおのつか らことのたよりありてかしこにゆきのそみ たりとも心ととめてきかんとおもへる人もすくな かるへし人のすきとなさけとは年月をそへて おとろへゆくゆへなり/e21r