蒙求和歌 ====== 第1第12話(12) 龔勝不屈 喚子鳥 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 龔勝不屈 喚子鳥 ** >王莽は成帝の舅。王曼の子。初め新都侯((底本「新」なし。諸本により補う。))を封ず。女(むすめ)を以て平帝の后と為し、進みて安漢土を封じ、遂に真に即す。新宅を改号し、建国と改元す。在位十五年、或いは十八年。 漢の龔勝、意賢にして名節をあらはせりき。光禄大夫たりき。 漢の平帝、隠れ給ひて後、宣帝の玄孫孺子嬰、即位の時、王莽、先帝の舅(しうと)として摂政たりし((底本「たりし」なし。書陵部本(桂宮本)により補う。))ほどに、嬰を捨てて、みづから位に即きてのころ、心ある人、おのおの逃げ隠れて、これに従はじとす。 春の日照り水絶えて、東作を忘れ、秋は風荒く蝗(いなご)ふりて、西収怠れり。道を知る人なかりければ、行ふところ乱れて、国治まれる時なし。民疲れ、兵(つはもの)飢ゑて、金一両が値(あたひ)の米、三升になりぬ。 この時、龔勝、深くこもり居ぬ。王莽、龔勝を講学に祭酒になして使はむとすれども、病のよしを答へてしたがはず。後に、大師の印綬をもつて、郡の守、龔勝が里に入りて詔を致す。重く煩へるよしを申して、東頭にして、朝服を着て、使に語りていはく、「われ、漢の厚恩受けて、報いむと思ふに、年すでに老ひにたり。豈に一身をもつて二姓に事(つか)へて、故主に下見せんや。朝に来たり、夕に来たりて誘(いざな)ふとも、出づべからず」と言ひて、まさに従はず。 また、仁承君といふ賢人あり。身をたばふ心ありて、王莽に従はずしてこもりぬ。しきりに召し出ださむとすれども、偽り清盲を作りて出でず。親しき踈き、皆まことと思へり。 少児の、あやまりて井に落ち入るを見れども、「宿業限りありて、助からざらむものゆゑに、助けむとせば、われ、偽りの明き盲(じひ)あらはれなむず」と思ひて、見ぬ顔にてやみぬ。 妻、いよいよまことと思ひて、承君が目の前にして、間男(まをとこ)に会へり。見れども、つゆばかりも色に出でず。かくてのみ過ぐしけり。 長沙定王発((劉発))の六代の孫光武((光武帝))、外には武威あり。内には仁恵ありて。人民 ことごとくに帰しけり。軍(いくさ)を起して、王莽を討ちてけり。隠れこもれりし聖賢の人、芸服((諸本「芸能」))の輩(ともがら)((「輩」、底本「□ラ」で輩字虫損。書陵部本(桂宮本)により補う。))、ここかしこより出ぬ((底本「ぬ」虫損。諸本により補う。))。 乱れたりし政を改めて、仁徳を行なはれけり。いつしか世治まり、人喜べり。一茎の種を植ゑて九穂の粟をなせり。まことに賢才を賞し、深く讒佞(ざんねい)を退けられけり。   何とかく思はぬ山に喚子鳥来し方にのみ帰る心を ===== 翻刻 ===== 龔勝不屈 喚子鳥/d1-10l 王莽ハ成帝ノ舅王曼之子初封都侯以女スメヲ為平帝后 進テ封安漢土遂即真改号新宅改元建国ト在位 十五年或十八年 漢龔勝意賢ニシテ名節ヲアラハセリキ光禄大夫タリキ 漢ノ平帝カクレ給ヒテ後宣帝ノ玄孫孺子嬰即位 之時王莽先帝ノシウトトシテ摂政程ニ嬰ヲ捨テテ ミツカラ位ニツキテノコロ意有人各ニケ隠レテ此ニシタカハシ トス春ノ日テリ水絶テ東作ヲ忘レ秋ハ風アラク蝗フリテ 西収ヲコタレリ道ヲ知ル人无リケレハ行フ所ロ乱テ国ヲサマレル 時キ无シ民ツカレツハモノ飢テ金一両カ直ノ米三升ニ成ヌ 此時龔勝深クコモリヰヌ王莽龔勝ヲ講学ニ祭酒ニ 成テツカハムトスレトモ病ノ由ヲコタヘテシタカハス後ニ大師 印綬ヲ以テ郡ノ守龔勝カサトニ入テ致ス詔ヲヲモク ワツラヘルヨシヲモウシテ東シ頭ニシテ朝服ヲキテ使ニ/d1-11r カタリテ云ク我レ漢ノ厚恩ウケテムクヰムト思ニトシ ステニヲイニタリ豈以一身事ヘテ二姓下見故主哉朝ニ 来リ夕ニ来テイサナフトモイツヘカラスト云テマサニシタカハス 又仁承君ト云賢人有リ身ヲタハフ心アリテ王莽ニシタカ ハスシテコモリヌ頻ニ召イタサムトスレトモイツハリ清盲ヲ ツクリテイテスシタシキウトキ皆マコトト思ヘリ少児ノ アヤマリテ井ニヲチイルヲミレトモ宿業カキリ有テ タスカラサラムモノユヘニタスケムトセハ我レイツハリノアキ シヰアラハレナムスト思テミヌカホニテヤミヌ妻弥マコ トト思テ承君カメノマヘニシテマヲトコニアヘリミレトモ ツユハカリモ色ニイテスカクテノミスクシケリ長沙定王 発六代ノ孫光武外ニハ武威有リ内ニハ仁恵有テ人民 悉クニ帰シケリイクサヲヲコシテ王莽ヲウチテケリ隠レ コモレリシ聖賢ノ人芸服ノ□ラココカシコヨリ出□乱レ/d1-11l タリシ政ヲ改メテ仁徳ヲヲコナハレケリイツシカヨヲサマリ人 ヨロコヘリ一茎ノ種ヲウエテ九穂ノアワヲナセリ実ニ賢才ヲ 賞シ深ク讒侫ヲ退ラレケリ ナニトカク思ハヌ山ニヨフコトリキシカタニノミカヘル心ヲ/d1-12r