[[index.html|唐鏡]] 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる ====== 15 東晋 成帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami6-14|<>]] 次をば成帝((司馬衍))と申しき。諱は衍、字は根((正しくは世根))、 明帝((司馬紹))の長子なり。明帝崩じて位に即き給ふ。庾太后(いうたいこう)((庾文君))、朝に臨みて制称し給ふ。司徒王導、尚書のことを録す。中書令庾亮、朝政参す。 咸和二年冬十一月、蘇峻(そしゆん)謀叛のことあり。 三年春二月、蘇峻の兵いたる。王の軍(いくさ)戦ふといへども、頻(しきり)に破れぬれば、王導ら大極殿にて帝を守護し奉る。峻が兵、勝ちにのりて、帝座に接す。また太后後宮に入る。左右の侍人、みな掠(かす)め奪はる。 この時に、大官に焼余せる米あり。これを御膳に奉る。百姓泣き呼ばひて、おびたたしきほどなり。 五月に蘇峻、帝を石頭(せきとう)に移し奉る。帝、哭き悲びて御車を召すに、宮中哭すること甚し。蘇峻、倉の屋を宮としてすゑ奉る。 九月に庾亮等、蘇峻を攻む。 四年春正月、蘇峻が子石((正しくは碩。蘇碩。))大極殿を焼く。この時、城中大いに飢ゑて、米一斗の直(あたひ)万銭なり。 二月に蘇峻、大いに破れぬれば、帝、温嶠(おんけう)が舟に召して還り給ふ。 咸康元年に、大いに旱(ひでり)して、米一斗直五百文なり。 八年夏六月、帝、西堂にして崩じ給ひぬ。御年二十二、在位十七年なり。 [[m_karakagami6-14|<>]] ===== 翻刻 ===== 次ヲハ成帝ト申キ諱ハ衍字ハ根明帝長子也明帝崩テ位ニ即給庾(イフ) 太后朝ニ臨テ制称シ給司徒(シト)王導尚書ノ事ヲ録ス中書令庾 亮朝政参ス咸和二年冬十一月蘇峻謀叛ノ事アリ三年 春二月蘇峻兵イタル王ノ軍戦トイヘトモ頻ニ破ヌレハ王導 等大極殿ニテ帝ヲ守護シ奉ル峻カ兵勝ニノリテ帝座ニ接ス又太后 後宮ニ入ル左右ノ侍人皆掠奪ル此時ニ大官ニ焼餘セル米アリ 是ヲ御膳ニ奉ル百姓泣呼テオヒタタシキ程也五月ニ蘇峻帝ヲ石(セキ) 頭(トウ)ニウツシ奉ル帝哭悲ヒテ御車ヲメスニ宮中哭スル事甚シ蘇峻倉ノ 屋ヲ宮トシテスエ奉ル九月ニ庾亮等蘇峻ヲセム四年春正月蘇 峻カ子石大極殿ヲヤク此時城中大ニ飢テ米一斗ノ直万/s167r・m296 銭也二月ニ蘇峻大ニ破ヌレハ帝温嶠(ヲンケウ)カ舟ニメシテ還給 咸康 元年ニ大ニ旱シテ米一斗直五百文也 八年夏六月帝西堂ニシテ崩給ヌ御年二十二在位十 七年也/s167l・m297 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/167?ln=ja