[[index.html|唐鏡]] 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる ====== 8 西晋 武帝(2 崩御・呉の滅亡)  ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami6-07|<>]] 元康元年三月に竜驤将軍王濬、舟師にて建業石頭に至る。呉の孫皓(そんかう)、面縛せられて、軍門に降る。五月に孫皓を封じて、帰命侯とす。 呉の孫皓、天紀四年春三月に、晋のために亡じぬ。在位十六年。 孫皓、位に在(ましま)す間、宴会することに、群臣悉(ふつく)に沈酔せざることなし。後宮数千人あり。水を堀りて宮に入れて、宮人の心にかなはざる者をば、すなはち殺して水に流し入る。あるいは人の面を剥ぎ、あるいは人の眼を挑(うが)つ((「挑つ」は底本「挑ル」。))。高きも賤しきも、離散の心のみあり。 時に、王正弁といふ臣あり。「仏法滅さるべし。中国のため、胡神利あらず」と申すに、詔を下して、諸の沙門を集へ、兵を召して寺を囲み、誅廃せんとする時、帝((孫皓))、僧会法師((康僧会。[[m_karakagami6-03]]参照。))に語り給ふ。「仏、もし神のごとくならば崇ふべし。霊なくば僧を殺し仏法を廃すべし」。僧会、「七日を申し請けて、験を施すべし」と申して、銅の鉢に水を盛りて、庭中に置く。 俄ありて曦光暉曜として、鉢に鎗然(さうぜん)の声あり。見るに舎利出で来て、光を放ちて、鉢の上に浮かぶ。帝((孫皓))及び大衆(だいしゆ)、進み見て驚く。僧会申さく、「陛下、孟賁(もうほん)が力して撃たしめ、百鈞(きん)の槌をもて打つとも、金剛の質、終(つひ)に破るべからず」。帝、礼拝し奉りて、散華(さんげ)・焼香・歌唄(かばい)し給ふ。壮士をして槌をもて打つに、気尽き槌は摧(くだ)くれども、舎利いささかも損せずして、光明輝けり。帝、誠を敬伏して、抽塔を造りて安置し奉る。 その後、婇女(さいじよ)と園地をめぐりて地を治するに、土の下に一軀(く)の金像を堀り出だせり。形相厳麗なり。帝、この像を厠(かはや)の傍に置きつ。 四月八日に至て、その像の上に尿しかけて笑ひて((「笑」は底本表記口偏に笑))曰く、「今日は四月八日なれば灌頂するなり」とて、諸の婇女と遊び戯むるるほどに、陰嚢にはかに腫れ疼(ひひ)らき痛みて、熱すること堪ふべからず。夜より朝にいたる苦痛、責め伏せて死なんとす。名医の上薬も術及ばず。太史、占ひ申さく、「大神を犯すがする所なり」。霊廟に祈祷すれども、験(しるし)なくして上下はかりなし。 中宮に一人の宮人、常に仏を信ず。帝愛ありて、この宮人、帝に申さく、「陛下、仏図を求め給へ」と。帝問ひ給はく、「仏は大神か」。宮中申さく、「天上天下の尊、仏に過ぎたるはなし。陛下得給ひし像、なほ厠の傍(かたはら)にあり。供養せられば、腫れ物必ずたちどころに萎みなむ」。 帝、病(やまひ)急なるによて、香湯をもて、手・目・像を洗ひ奉りて、殿上に置きて、頭を叩きて過(とが)を謝し、一心に愍れみを求む。その夜、苦痛止まりて、腫れもすなわち愈す。 康僧会を請じて、五戒を受け、大市寺を起(た)て、衆僧を供養せらる。晋の元康四年に、四十二にて崩じぬ。呉の四主、合はせて五十九年なり。 元康二年春、呉の孫皓が妓妾五千人を撰びて、宮に入る。 四年、会稽に蟹化して鼠と成りて、稲食ふことありき。 五年夏四月、魯の国の池、水赤きこと血のごとし。 七年十二月、河陰に赤雪降れること二頃 大熙元年夏四月に、帝((武帝・司馬炎))、含章殿にて崩じ給ひぬ。御年五十五、在位二十五年なり。 [[m_karakagami6-07|<>]] ===== 翻刻 ===== 元康元年三月ニ龍驤将軍王濬舟師ニテ建業石頭ニイタル 呉孫皓面縛セラレテ軍門ニ降ル五月ニ孫皓ヲ封シテ帰命侯トス  呉孫皓天紀四年春三月ニ晋ノタメニ亡シヌ在位  十六年孫皓位在間宴会スルコトニ群臣悉ニ無  不沈酔後宮数千人アリ水ヲ堀テ宮ニ入テ宮人ノ心ニ不叶/s159l・m281 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/159?ln=ja  者ヲハ即殺シテ水ニナカシ入或ハ人ノ面ヲハキ或ハ人ノ眼ヲ  挑ル高モ賤モ離散ノ心ノミアリ時ニ王正弁ト云臣アリ仏法  滅サルヘシ中国ノタメ胡神利アラスト申ニ詔ヲ下シテ諸ノ沙門ヲ  集ヘ兵ヲ召テ寺ヲカコミ誅廃セントスル時帝僧会法師ニ語  給フ仏若神ノ如ナラハ崇ヘシ霊ナクハ僧ヲ殺シ仏法ヲ  廃スヘシ僧会七日ヲ申請テ験ヲ施スヘシト申シテ銅ノ鉢ニ  水ヲ盛テ庭中ニヲク俄アリテ曦光暉曜トシテ鉢ニ鎗然ノ声アリ  見ニ舎利出来テ光ヲ放テ鉢ノ上ニ浮フ帝及大衆ススミ見テ  驚ク僧会申サク陛下孟賁カ力シテ撃シメ百鈞ノ槌ヲモテウツ  トモ金剛ノ質終不可破帝礼拝シ奉テ散花焼香歌/s160r・m282  唄シ給壮士ヲシテ槌ヲモテウツニ気ツキ槌ハ摧クレトモ舎利聊モ  損セスシテ光明カカヤケリ帝敬伏シテ誠ヲ抽塔ヲ造テ安置シ奉ル  其後婇女ト園地ヲメクリテ地ヲ治スルニ土ノ下ニ一軀ノ金像ヲ  堀出セリ形相厳麗也帝此像ヲ厠ノ傍ニヲキツ四月八  日ニ至テ其像ノ上ニ尿シカケテ〓曰今日ハ四月八日ナレハ  灌頂スル也トテ諸ノ婇女ト遊ヒ戯ルルホトニ陰嚢俄ニ腫疼(ヒヒラキ)  痛テ熱スル事不可堪夜ヨリ朝ニイタル苦痛責伏テシナントス  名医ノ上薬モ術不及太史占申サク大神ヲ犯スカスル所也  霊廟ニ祈祷スレトモ験ナクシテ上下計ナシ中宮ニ一ノ宮  人常ニ仏ヲ信ス帝愛アリテ此宮人帝ニ申サク陛下仏図ヲ/s160l・m283 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/160?ln=ja  求メ給ヘト帝問タマハク仏ハ大神歟宮中申サク天上天下ノ  尊仏ニ過タルハナシ陛下得給シ像猶厠ノ傍ニアリ供養セラ  レハ腫物必ス立所ニ萎ナム帝病急ナルニヨテ香湯ヲモテ  手目像ヲ洗奉テ殿上ニ置テ頭ヲ叩テ過ヲ謝シ一心ニ愍ミヲ求ム其  夜苦痛止テ腫モ則愈ス康僧会ヲ請シテ五戒ヲ受大市(シ)寺ヲ  起テ衆僧ヲ供養セラル晋ノ元康四年ニ四十二ニテ崩ヌ呉ノ  四主合五十九年也 元康二年春呉ノ孫皓カ妓妾五千人ヲ撰テ宮ニ入ル 四年会稽ニ蟹化シテ鼠ト成テ稲食コトアリキ五年夏四月魯ノ 国ノ池水赤コト如血 七年十二月河陰ニ赤雪フレルコト/s161r・m284 二頃 大熙元年夏四月ニ帝含章殿ニテ崩給ヌ御年五 十五在位廿五年也/s161l・m285 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/161?ln=ja