[[index.html|唐鏡]] 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる ====== 7 西晋 武帝(1 即位) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami6-06|<>]] この次の国をば西晋と号す。金徳なり。 第一の主は武皇帝((武帝・司馬炎))と申しき。諱(いみな)は炎、字(あざな)は安世、太祖((司馬昭))の長子、高陽氏の後也。寛恵仁厚(くわんけいじんこう)にして深度量あり。仏事を弘め伽藍(がらん)を建て給ふ。 魏の咸熙二年冬十二月、始めて魏の禅を受け給ふ。太始元年と改元す((「改元す」は底本「改元ト」。文脈により訂正。))。今年乙酉を、日本国神功皇后六十五年に当りし。洛陽に都す。 太始二年秋七月に大廟を営む。 呉の孫皓、宝鼎元年なり。丹陽といふ所に、女子化して亀となれり。 太始六年九月に、大宛(たいえん)より汗血馬(かんけつば)を献(たてまつ)る。 呉の孫皓、建衡二年なり。春三月、大いに火ありて、万余家焼けて、死者七百人なり。 咸寧二年春正月、廃朝(はいてう)。去年の冬より大いに疫して、洛陽に死者大半。このことによりて朝を廃したるなり。 咸寧四年夏四月に、蚩尤旗(しゆうき)東井に見ゆ。冬十一月、大医司馬程拠、雉の頭裘を献る。「奇伎(きぎ)の異服は礼典の禁ずるところなり」とて、殿の前にて焼かれぬ。 [[m_karakagami6-06|<>]] ===== 翻刻 ===== 此次国ヲハ西晋ト号ス金徳也 第一主武皇帝ト申キ諱ハ炎字ハ安世太祖ノ長子高陽氏ノ 後也寛恵(クワンクヱイ)仁厚ニシテ深度量アリ仏事ヲ弘メ伽藍ヲ建玉フ魏咸 熙二年冬十二月始テ魏禅ヲ受玉フ太始元年ト改元ト今 年乙酉ヲ日本国神功皇后六十五年ニ当シ洛陽ニ都ス 太始二年秋七月ニ大廟ヲ営ム  呉孫皓宝鼎元年也丹陽ト云所ニ女子化シテ亀トナレリ 太始六年九月ニ大宛ヨリ汗血馬ヲ献ル  呉孫皓建衡二年也春三月大ニ火アリテ万餘/s159r・m280  家焼テ死者七百人也 咸寧二年春正月廃朝去年ノ冬ヨリ大ニ疫シテ洛陽ニ死者大 半此事ニヨリテ廃朝タル也 咸寧四年夏四月ニ蚩尤 旗東井ニ見冬十一月大医司馬程拠雉ノ頭裘ヲ献ル奇 伎ノ異服ハ礼典ノ禁スル所也トテ殿ノ前ニテヤカレヌ/s159l・m281 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/159?ln=ja