[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 20 後漢 孝献帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-19|<>]] 第十二主をば孝献帝と申しき。諱(いみな)は協。霊帝((劉宏))の中子なり。御母を王美人((王栄))と申しき。何皇后に害せられ給ふ。九歳にして位に即き給ふ。董卓(とうたく)、太后何氏を殺して、みづから大尉になる。すなはちまた相国となりぬ。 初平元年二月に都(と)を長安に移さる。その時、白虹(はくこう)((「虹」は底本「蚣」。内閣文庫本により訂正。))日を貫く。 三月、帝(みかど)、長安に入りて、未央宮(びあうきう)に幸し給ひぬれば、董卓、洛陽の宮廟及び人の家、ことごとくに焼き払ふ。 三年、董卓を誅して三族(さんぞく)を亡ぼされぬ。 興平元年、帝、籍田(せきでん)に耕(たが)へし給ふ。今年、穀斛(こくこく)に銭五千万、豆麦(とうばく)一斛には二十万、人あひはみ食らふて白骨積もり積もれり。帝、太倉(たいさう)の米豆を出だして、粥として飢人(きにん)に賜ぶ。 建安元年、宮室焼け尽きて、百官ゐるところなくして、荊棘(けいきよく)を開いて、墻壁(しやうへき)の間(あひだ)に寄れり。国々彊兵(きやうへい)を出だして、物を出だすことなければ、群寮(ぐんれう)飢ゑ乏(とも)し。尚書郎以下、みづから出でて耜(りよ)を取る。あるいは飢死、あるいは兵のために殺さる。 この時、曹操(さうさう)、みづから司空になりて、百官すでにすべて聞く。 十八年に、曹操、自立して魏公となる。 二十一年に、曹操、みづから魏王と号す。 二十五年に、曹操、薨(こう)じて、子丕(ひ)((曹丕))位を継ぐ。 三月に年号を延康とす。 十月に帝、位を魏王に譲りて、天子と称し給はず。山陽公となし給ひぬ。 明年に劉備、蜀に帝と称し、孫権また呉に王と称す。天下三つに分かれて鼎(かなへ)のごとくにそばだてり。 山陽公は魏の青竜二年に失せ給ひぬ。位をのがれて後十四年、歳は五十四なり。孝献帝と諡奉る。光武((光武帝・劉秀))より献帝に至るまで十二帝、合はせて百九十七年なり。 [[m_karakagami5-19|<>]] ===== 翻刻 ===== 第十二主をは孝献帝(カウケンテイ)と申き諱は協(ケウ)霊(レイ)帝の中子也 御母を王美人と申き何皇后に害せられ給ふ九歳/s145r・m260 にして位に即給董卓太后何氏(カシ)をころしてみつ から大尉になるすなはち又相国となりぬ 初平元年二月に都(ト)を長安(チヤウアン)にうつさるその時白蚣(コウ) 日を貫(ツラヌ)く三月帝長安に入て未央宮に幸し給 ぬれは董卓洛陽の宮廟(キウヘウ)をよひ人の家ことことく にやきはらふ 三年董卓を誅して三族(ソク)をほろほされぬ 興平元年みかと籍田(セキテン)に耕(タカヘ)し給ことし穀斛(コクコク)に銭五 千万豆麦(トウハク)一斛には二十万人あひはみくらふて白骨つ もりつもれり帝太倉の米豆をいたして粥として/s145l・m261 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/145?ln=ja 飢人にたふ 建安元年宮室やけつきて百官ゐるところなくして 荊棘(ケイキヨク)をひらいて墻壁のあひたによれり国々彊兵(キヤウヘイ) をいたしてものをいたすことなけれは群寮(クンレウ)飢とも し尚書郎以下みつからいてて耜(リヨ)をとる或は飢死 或は兵のためにころさるこの時曹操(サウサウ)みつから司空に なりて百官已にすへてきく 十八年に曹操自立して魏公(クヰコウ)となる 二十一年に曹操みつから魏王と号す 二十五年に曹操薨(コウシ)て子丕位をつく三月に年号/s146r・m262 を延康とす十月にみかと位を魏王にゆつりて天 子と称し給はす山陽(サンヤウ)公となし給ぬ明年に劉備(リウヒ) 蜀(シヨク)に帝と称し孫権(クエン)また呉に王と称す天下三つ にわかれて鼎(カナヘ)のことくにそはたてり山陽公は魏青 龍二年にうせ給ぬ位をのかれてのち十四年としは 五十四なり孝献帝と諡たてまつる光武より献帝 にいたるまて十二帝あはせて百九十七年也/s146l・m263 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/146?ln=ja