[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる
====== 19 後漢 孝霊帝(3 崩御・少帝弁) ======
===== 校訂本文 =====
[[m_karakagami5-18|<>]]
中平六年に、帝((霊帝・劉宏))、隠れ給ひぬ。御年三十四、在位二十二年なり。
皇子弁((少帝弁・劉弁))、位に即き給ふ。御年十七なり。太后((何皇后))、朝にのぞみ給ふ。年号を光熹((底本表記「光喜」。以下同じ。))と改めらる。袁隗(えんくわい)・何進(かしん)、尚書のことを録して政をとる。
八月に中常侍張譲・段珪(だんけい)、何進(かしん)・袁術(えんじゆつ)を殺して、東西の宮室を焼き、もろもろの宦者を攻む。譲・珪((張譲と段珪))ら、この少帝及び御弟(おとと)の陳留王((献帝・劉協))をおびやかし奉る。内裏を出でて、小平津(せうへいしん)といふ所へ走り行き給ひぬ。
尚書盧植(ろしよく)、追ひて数人を切る。その余りは((底本「植、追ひて数人を切る。その余りは」なし。底本の異本注記により補う。))河南に投げて死ぬ。
帝、陳留王と、夜更くるほどなれば、暗さに蛍火(けいくわ)の光を見て、徒歩(かち)より行き給ふこと数里なり。民の家に露車(ろしや)のありけるを取りて、ともに乗りて、宮へ帰り給ひぬ。露車とは、上もなくて物を積む車なり。
光熹元年を昭寧とぞ改められし。董卓(とうたく)みづから司空となる。百僚(はくれう)大いに会する時、董卓、首を奮(ふる)ひて曰く、「帝、暗弱(あんじやく)にして、天下の主たるべからず。伊尹(いゐん)・霍光(くわつくわう)が故事((伊尹の故事は[[m_karakagami1-14]]、霍光の故事は[[m_karakagami4-09]]参照。))))によりて、陳留王を立てんいかん」と申す。公卿以下、答ふる者なし。
尚書盧植、独(ひとり)答へていはく、「太甲(たいかう)明らかならず。昌邑((劉賀))罪千余ありしかば、廃立(はいりふ)のことありき。今、帝、春秋に富み徳失なへることなし」と申すに、董卓(タウタク)大に怒りて、次の日、少帝を廃(す)てて弘農王として、すなはち陳留王を立て奉る。
弘農王は在位百七十日ばかりなり。董卓つゐに鴆((「鴆」は底本酉に冗。))を奉りつ。
[[m_karakagami5-18|<>]]
===== 翻刻 =====
中平六年にみかとかくれ給ぬ御年三十四在位二十二
年なり皇子辯位に即給御年十七なり太后朝
にのそみ給年号を光喜(キ)とあらためらる袁隗(エンクワイ)何(カ)
進(シン)尚書(シヤウシヨ)のことを録して政をとる八月に中常侍(チウシヤウシ)
張譲(チヤウシヤウ)段珪(タンケイ)何進(カシン)袁術(エンシユツ)を殺て東西の宮室をやき
もろもろの宦者をせむ譲珪(シヤウケイ)等この少帝をよひ御
おととの陳留(チンリウ)王をおひやかしたてまつる内裏をい/s144r・m258
てて小平津(セウヘイシン)といふところへはしりゆき給ぬ尚書盧(シヤウシヨロ)
(イ植追テ数人ヲキルソノ餘ハ)河南に投(ナケ)(至イ)てしぬ(又イ)みかと陳留(チンリウ)王と夜ふくるほとなれは
くらさに蛍火(ケイクワ)の光を見てかちより(イナシ)ゆき給こと数
里なり民の家に露車(ロシヤ)のありけるをとりてともに
のりて宮へかへり給ぬ露車とはうへもなくて物をつ
むくるまなり
光喜元年を昭(セウ)寧とそ改られし董卓みつから
司空となる百僚(ハクレウ)大に会するとき董卓首を奮(フル)て
曰くみかと暗弱(アンシヤク)にして天下の主たるへからす伊尹霍(クワツ)
光(クワウ)か故事によりて陳留(チンリウ)王をたてんいかんと申す公/s144l・m259
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/144?ln=ja
卿以下こたふるものなし尚書(シヤウシヨ)盧(ロ)植独こたえていはく
太甲(タイカウ)あきらかならす昌邑(シヤウイフ)罪千餘ありしかは廃立(ハツリウ)のこ
とありきいまみかと春秋に冨て徳うしなへる事
なしと申に董卓(タウタク)大にいかりてつきの日少帝を
廃(ステ)て弘農(コウノウ)王としてすなはち陳留王を立たてまつる
弘農王は在位百七十日はかりなり董卓つゐに〓
をたてまつりつ/s145r・m260
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/145?ln=ja