[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 13 後漢 孝順帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-12|<>]] 第七の主をば孝順帝((順帝・劉保))と申しき。諱(いみな)は保(はう)。安帝((安帝・劉祜))の御子なり。御母李氏と申す。閻后((閻姫))のために害せられぬ。 永寧元年に皇太子に立ち給ふ。安帝の乳母((底本「シユホ」と読み仮名。))王聖(わうせい)、江京(かうけい)といふ者ども、太子の乳母を讒して殺しつ。太子歎き給ふ。王聖ら、後の禍(わざは)ひのあらんことを懼(お)ぢて、太子を罪におとしいれ奉りつ。済陰王となり給ふ。 北郷侯((少帝懿・劉懿))の失せ給ふを隠して、喪(も)を発せず。将軍閻顕・中常侍劉安が宮門を閉ぢて、兵を集めて固く守(まぼ)る。今宵、中黄門孫程等十九人、劉安((底本「等」と異本注記。))を切りて、帝、位に即き給ふ。 閻顕兄弟、帝位に即き給ふと聞きて、兵を率ゐて、北宮にいる尚書郭鎮ともに戦ひて、彼らを切りて、省(せい)に入りて、璽綬(じじゆ)を奪(むば)ひ取りて、帝に奉りつ。 永建四年、海内(かいだい)すこぶる災異ありて、朝廷((底本表記「朝庭」。))政(まつりごと)を治む。御膳を減じ、珍玩御し給はず。 陽嘉元年冬十一月、望都といふ所に、狼の女子九十人を殺すことありき。 永和二年より五年に及ぶまで京師(ケイシ)に地震しきりなり。隴西(りやうせい)・金城(きんせい)にも地震して、地裂け山崩れて人を殺す。 建康元年八月に、帝、崩じ給ひぬ。御年三十、在位十九年なり。 [[m_karakagami5-12|<>]] ===== 翻刻 ===== 第七主をは孝順帝と申き諱は保(ホウ)安(アン)帝の御子なり 御母李氏と申す閻后(ヱンコウ)のために害せられぬ永寧 元年に皇太子に立たまふ安帝の乳母(シユホ)王聖(ワウセイ)江京(カウケイ)と いふものとも太子の乳母を讒てころしつ太子なけ き給王聖(ワウセイ)等のちのわさはひのあらんことを懼(ヲチ)て/s140r・m250 太子をつみにおとしいれたてまつりつ(るイ)済陰(セイイン)王と なり給北郷侯のうせ給をかくして喪(モ)を発せす 将軍閻顕中常侍(エンケンチウシヤウシ)劉安(リウアン)か宮門をとちて兵をあ つめてかたくまほるこよひ中黄門(チウクワウモン)孫程(ソンテイ)等十九人 劉安(等イ)をきりてみかと位に即給閻顕兄弟みかと 位に即給とききて兵をひきゐて北宮にいる尚書(シヤウシヨ) 郭鎮ともに戦(タタカイ)てかれらをきりて省(セイ)に入て璽綬(シシウ) をむはひとりてみかとにたてまつりつ 永建四年海内(タイ)すこふる災異(サイイ)ありて朝庭(テウテイ)政をお さむ御膳を減し珎玩御し給はす/s140l・m251 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/140?ln=ja 陽嘉(ヤウカ)元年冬十一月望都(ハウト)といふところに狼(オホカミ)の女子 九十人をころすことありき 永和二年より五年にをよふまて京師(ケイシ)に地震し きりなり隴西(リヤウセイ)金城(キンセイ)にも地震して地さけ山くつ れて人をころす 建康(カウ)元年八月に帝崩給ひぬ御年三十在位十 九年なり/s141r・m252 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/141?ln=ja