[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 12 後漢 孝安帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-11|<>]] 第六の主を恭宗孝安帝((安帝・劉祜))と申しき。諱(いみな)は祜(こ)。粛宗の孫、清河王慶の子なり。御母は左姫と申す。生まれ給ひて後、神光おはしまして室を照らすことたびたびあり。また赤蛇(あかへみ)ありて、牀笫(さうし)の間にわだかまることも((「ことも」は底本「ことことも」。衍字とみて訂正。))ありき。 御年十歳にして史書を学び給ひ、十三にて位に即き給ふ。殤帝(しやうてい)((劉隆))失せ給ひしかば、その御兄平原王((劉勝))の位に即き給ふべかりしが、痼疾(こしつ)にて、この君の即き給へるなり。太后((鄧綏))なほ朝にのぞみ給ふ。 永初二年夏四月に、漢陽城に火ありて、焼け死ぬる者三千五百七十人、あさましかりしことなり。 三年春三月に、京師(けいし)及び諸州おほきに飢ゑて、人あひ食(は)む。 四月に国用(こくよう)の不足なるによて、吏人をして銭穀を入れしめて、関内公たらしめ、虎賁羽林郎(こほんうりんらう)・五大夫などになし給ふ。官を売ること、この御時より始まれり。 延光四年三月に、帝(みかど)旅に出で給ひほどに、乗輿(じようよ)に崩じ給ひぬ。御年三十二、在位十九年なり。旅なれば、秘して人知らず。宮に帰り給ひて後ぞ、かくと聞こゆる。太后((閻姫))、このかみの車騎将軍((閻顕))とはかりごとを禁中にして定めつ。章帝の孫済北恵王寿((劉寿))の子、北郷侯((少帝懿・劉懿))をたてて位に即き奉りしに、その年の十月に崩じ給ひぬ。 [[m_karakagami5-11|<>]] ===== 翻刻 ===== 第六主を恭宗(クヰヨウソウ)孝安(カウアン)帝と申き諱は祜(コ)粛宗(シクソウ)の孫清(セイ) 河王(ワウ)慶(ケイ)の子也御母は左姫(サキ)と申すむまれ給ひて のち神光おはしまして室をてらすことたひたひ あり又赤蛇(アカヘミ)ありて牀第(サウシ)のあひたにわたかまること こともありき御年十歳にして史書(シシヨ)をまなひたま ひ十三にて位に即給殤帝(シヤウテイ)うせ給しかはその御あ に平原(ヘイクエン)王の位につき給へかりしか痼疾(コシツ)にてこの 君のつき給へる也太后なを朝にのそみ給/s139r・m248 永初二年夏四月に漢陽城に火ありてやけしぬるも の三千五百七十人あさましかりしことなり 三年春三月に京師(ケイシ)をよひ諸(シヨ)州おほきに飢(ウヱ)て人 あひはむ 四月に国用の不足なるによて吏(リ)人をして銭穀 をいれしめて関(クワン)内公たらしめ虎賁羽林郎(コホンウリンラウ)五太 夫なとになし給ふ官を売ることこの御ときより はしまれり延光四年三月にみかとたひにいてたま ひしほとに乗輿(シヨウヨ)に崩給ぬ御年卅二在位十九年 なりたひなれは秘して人しらす宮にかへり給/s139l・m249 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/139?ln=ja てのちそかくときこゆる太后このかみの車騎(シヤキ)将軍 とはかりことを禁中にしてさためつ章帝の孫済(セイ) 北(ホク)恵(ヱイ)王寿の子北郷(ホクキヤウ)侯をたてて位に即たてまつり しにその年の十月に崩たまひぬ/s140r・m250 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/140?ln=ja