[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 8 後漢 孝明帝(4 崩御) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-07|<>]] 十八年八月に、帝((明帝・劉荘))、崩じ給ひぬ。御年四十八、在位十八年なり。 この帝、建武の制度をたがへず御政(まつりごと)ありしかば、四海波静かに、万民楽しみけり。後宮の家、一人として封侯(ほうこう)にあづからず。御姉に館陶公主(くわんたうこうしゆ)と申しし人の子を郎になし給ぶべきよし、申させ給ひしにぞ、銭千万を給びて、郎をば免し給はず。「郎官は上列宿(かみれつしゆく)に応じて、百里に宰(さい)たり。その人にあらざる時は、その殃(やう)を受くることなれば惜む」とぞのたまひける。 かやうのありがたき善政のみ行なはれしかば、建武永平の治世とて、後の世までいみじきことに申せり。光武((光武帝・劉秀))の御時、二十八将とてゆゆしき人々の姿(かたち)を南宮の雲台に画図せられて、常には見給ひけり。また御服には洗ひたる衣を召し、御膳にも珍物はとどめられしなり。 [[m_karakagami5-07|<>]] ===== 翻刻 ===== 十八年八月に帝崩たまひぬ御年四十八在位十八年 なりこのみかと建武の制度をたかへす御政ありし かは四海なみしつかに万民たのしみけり後宮の家ひと りとして封侯(ホウコウ)にあつからす御あねに館陶公主(クワンタウコウシユ)と申 しし人の子を郎になしたふへきよし申させ給しに そ銭千万をたひて郎(ラウ)をはゆるし給はす郎官は 上列宿(カミレツシユク)に応して百里に宰(サイ)たり其人にあらさる ときはその殃(ヤウヲ)うくることなれは惜(ヲシム)とそのたまひ/s135l・m241 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/135?ln=ja けるかやうのありかたき善政のみをこなはれしかは 建武永平治(シイ)世とてのちの世まていみしきことに申 せり光武の御時二十八将とてゆゆしき人々のかたち を南宮(ナンキウ)の雲臺(ウンタイ)に画図(クワト)せられて常には見たまひけ り又御服には洗(アラヒ)たる衣をめし御膳(セン)にも珍物はとと められしなり/s136r・m242 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/136?ln=ja