[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 6 後漢 孝明帝(2 仏教伝来) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-05|<>]] 永平二年己未、辟雍(へきよう)に臨みて、大射の礼を行はる。「春日載(すなは)ち陽(あたた)かにして、辟雍に合射(がうしや)す」。「并夾既に設けて、広庭に儲(まう)たり」。「決拾(けつしふ)((底本「クワツシウ/ユカケトモ」と読み仮名及び注。)))既に次(つい)で、彫弓(てうきう)斯れ彀(は)る。((底本「彫弓斯彀」に「テウキウコレハル」と読み仮名。))」と東京賦に作れり。 七年庚申、帝((明帝・劉荘))、御夢に金人(きんじん)の身の長(たき)丈六なるが、項(うなじ)に日輪を佩(お)びて、空(そら)を飛びて至る。光明赫奕(くわうみやうかくやく)として殿庭を照すと見給ひて、朝(あした)に群臣を召し集めて、夢に見給ふやうを問はしめ給ふに、通人傅毅(ふき)といふ者、進みて曰く、「臣聞く、西方に神まします。仏と名付く。陛下の見給ふところ、必ずこれならん」。帝、「しかなり」と思し召して、霊瑞(れいずい)を欣感(きんかん)し給ひて、羽林中郎蔡愔(さいいん)・博士秦景・弟子王遵などいふ人々一十四人を使(つかひ)として天竺へつかはす。月支国にして摂摩騰(せつまとう)((迦葉摩騰))に遇ひて、仏経卅二章((四十二章経。底本「四十」と異本注記。))を写せり。画像を得て((「得て」は底本「みて」。底本の異本注記により訂正。))、白馬に乗り奉りて帰り参る。 洛陽に伽藍を建てて安置せらる。この寺、白馬寺とぞ名付けられし。仏法震旦に渡る始めなり。周の穆王五十二年壬申の年、仏入滅の後、永平七年にいたるまでは一千一十二年ばかりにやなりぬらん。 十一年正月に漅湖(さうこ)に黄金出でたり。盧江太守これを奉る。 [[m_karakagami5-05|<>]] ===== 翻刻 ===== 永平二年己未辟雍(ヘキヰヨウ)に臨(ノソミ)て大射(シヤ)の礼を行はる春日 載(スナハチ)陽(アタタカ)して辟雍(ヘキヰヨウ)に合射(カウシヤ)す并夾既に設(マウケ)て広庭(クワウテイ)に 儲(マウ)たり決拾(クワツシウ/ユカケトモ)既に次(ツイ)て彫弓斯彀(テウキウコレハル)と東京賦に作れり 七年庚申みかと御夢に金人(キンシン)の身のたき丈六なるか/s133r・m236 項に日輪を佩(ヲヒ)て空(ソラ)をとひていたる光明赫奕(カクヤク)として 殿庭を照すと見給ひてあしたに群臣をめしあつ めて夢に見給ふやうを問しめ給ふに通人傅毅(トウシンフギ)と いふものすすみて曰く臣聞く西方に神まします 仏となつく陛下(ヘイカ)のみたまふところかならすこれならん みかとしかなりとおほしめして霊瑞(レイスイ)を欣(キン)感し給て 羽林中郎蔡愔(ウリンチウラウサイイム)博士秦景(ハカセシンケイ)弟子王遵(テシワウシユン)なといふ人々 一十四人をつかひとして天竺へつかはす月支国にして 摂摩騰(セツマトウ)に遇て仏経卅(四十イ)二章を写せり画像をみ(ゑイ)て 白馬にのりたてまつりてかへりまいる洛陽(ラクヤウ)に伽藍(カラン)/s133l・m237 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/133?ln=ja をたてて安置せらる此寺白馬寺とそ名つけられ し仏法震旦(シンタン)にわたるはしめなり周穆王(シウノボクワウ)五十二年壬 申のとし仏入滅の後永平七年にいたるまては一千一十 二年はかりにやなりぬらん 十一年正月に漅湖(セウコ)に黄金いてたり盧江(ロカウ)太守これをた てまつる/s134r・m238 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/134?ln=ja