[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 5 後漢 孝明帝(1 即位・桓栄) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-04|<>]] 第二主をば、顕宗孝明帝((明帝・劉荘))と申しき。諱(いみな)は荘、光武((光武帝・劉秀))の第四の御子なり。御母をは陰皇后((陰麗華))と申す。生まれ給ひて豊下(ほうか)としもほらにおはします。十歳にして春秋に通じ給ふ。 建武十九年に皇太子と立ち給ふ。博士桓栄を師とし給ひて、尊崇はなはだし。 御年三十四にて位に即き給ひて、侍読(じどく)桓栄いよいよ親重せらる。二人の子を郎に拝せしむ。 栄、年八十に過ぎて、衰老せるによて、ますます賞賜(しやうし)せらる。帝、その家に幸(ゆ)き給ふに、栄は東面して几杖(きぢやう)を賜はる。親王以下大臣・公卿等数百人、みな門生といへり。天子みづから業(げふ)を執り給ひて、「大師、これ((「これ」は底本「足」に「アシ」と読み仮名。底本の異本注記により訂正。))にまします」とぞのたまひて((「のたまひて」は底本「のたまふ」。底本の異本注記により訂正。))大官の供具(くぐ)をその家へつかはす。 恩礼のいたりかくのごとし。関内侯(くわんだいこう)に封じて、食邑(しよくいふ)五千 戸なり。 病するとき、帝、使をやりて問ひ給ふ。大官・大医、道にのぞむことひまなし。帝みづからその家に幸(ゆ)きて、起居を問ひ給ふ。経を擁(よう)して、栄を撫でて、涕(なみだ)を垂れ給ひ、さまざまの物どもを賜はる。 子孫相伝して、代々の帝の師として、みな卿相(けいしやう)に至る。 [[m_karakagami5-04|<>]] ===== 翻刻 ===== 第二主をは顕宗孝明(ケンソウカウメイ)帝と申き諱は荘光武の第四/s132r・m234 の御子也御母をは陰(イム)皇后と申すむまれ給ひて豊(ホウ) 下(カ)としもほらにおはします十歳にして春秋に通 給建武十九年に皇太子とたち給博士桓栄を師と し給ひて尊崇(ソンスウ)はなはたし御年卅四にて位に即 給て侍読(シトク)桓栄いよいよ親重(シンチヨウ)せらる二人の子を郎に 拝せしむ栄年八十にすきて衰老(スイラウ)せるによてま すます賞賜(シヤウシ)せらる帝其家に幸給に栄は東面し て几杖(キチヤウ)を賜はる親王以下大臣公卿(ケイ)等数百人皆門(モン) 生(セイ)といへり天子みつから業(ゲウ)を執(トリ)給ひて大師(タイシ)足(アシ)(是イ)にまし ますとそのたまふ(ひてイ)大官の供具(クク)をその家へつかはす/s132l・m235 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/132?ln=ja 恩礼(ヲムレイ)のいたりかくのことし関内侯(クワンタイコウ)に封て食邑(シヨクイフ)五千 戸なり病するとき帝使を遣て問(トイ)給大官(タイクワン)大医(タイイ) 道(ミチ)にのそむことひまなし帝みつから其家に幸て 起居を問(トイ)たまふ経を擁(ヰヨウシ)て栄を撫(ナテ)て涕を垂給 ひさまさまの物ともを賜はる子孫相伝して代々の 帝の師として皆卿相にいたる/s133r・m236 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/133?ln=ja