[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 4 後漢 光武帝(4 崩御) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-03|<>]] 二年春正月に倭奴国(わどこく)より使を奉る。この倭奴国は日本国にてや侍るらん。今年は日本の帝王垂仁天皇八十六年にぞあたり侍りけん。 二月に帝(みかど)((光武帝・劉秀))、南宮の前殿にて崩じ給ひぬ。御年六十三、在位三十三年なり。遺説には孝文の制度のごとくなるべしとぞ聞こえ侍りし。 この帝、聖徳の至り、符を高祖((劉邦))に同じくして、帝王の道そなはり給へり。「建武のはじめ、天地命をあらため、君臣はじめて立ちて、人倫(じんりん)寔(まこと)にはじまる」と文 選の東都賦にも讃め奉る。 二十八将の輩(ともがら)を従へて乱をおさめ、世をしづめ給へり。この二十八将をば天の二十八宿に応ぜられけり。 帝、身には大練(だいれん)の衣を召し、耳には鄭衛(ていゑい)の声を聞き給はず。手には珠玉の宝を取らず。宮房愛することなく、群臣を賞し給ふこと偏頗(へんば)なし。常には公卿・良将を召して、民をあはれぶ御政のみぞありける。 また経術(けいじゆつ)を好み給ふあまり、位につき給ひし時は、車より降り給はざるさきに、まづ儒士(じゆし)をぞあがめさせ給ひし。 帝、昔ともに遊び学問し給ひし友あり。厳光といふ。位につき給ひて後、昔を忘れず、ともに臥し給ひて、御物語などあるに、厳光、足を帝の御腹の上に置きつ。夜明けて後、「客星(かくせい)御座を犯すことはなはだし」と大史(たいし)奏し申しければ、帝笑ひて、「朕、故人厳子陵とともに臥せりつ」とぞのたまひける。 [[m_karakagami5-03|<>]] ===== 翻刻 ===== 二年春正月に倭奴国(ワトコク)より使をたてまつるこの倭奴国は 日本国にてや侍るらん今年は日本の帝王垂仁天皇八 十六年にそあたり侍けん二月にみかと南宮の前殿 にて崩給ぬ御年六十三在位三十三年なり遺説(ヰセツ)には 孝文(カウフン)の制度のことくなるへしとそきこえ侍しこの みかと聖徳のいたり符を高祖に同しくして帝王/s131r・m232 の道そなはり給へり建武のはしめ天地命をあら ため君臣はしめてたちて人倫(シンリン)寔(マコト)にはしまると文(モン) 選(セン)の東都賦(トウトフ)にもほめたてまつる廿八将のともからを したかへて乱をおさめ世をしつめたまへりこの廿八 将をは天の廿八宿に応せられけりみかと身には 大練(タイレン)の衣をめし耳には鄭衛(テイヱイ)の声をきき給はす手 には珠玉のたからをとらす宮房愛することなく群 臣を賞し給ふこと偏頗(ヘンハ)なしつねには公卿良将 をめして民をあはれふ御政のみそありける又経(ケイ) 術(シユツ)をこのみたまふあまり位につき給ひし時は車/s131l・m233 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/131?ln=ja よりおりたまはさるさきにまつ儒士(シユシ)をそあかめさせ給 しみかとむかし共に遊ひ学問(カクモン)し給し友あり厳(ケン) 光(クワウ)といふ位につき給てのちむかしをわすれす共 に臥(フシ)給ひて御ものかたりなとあるに厳光(ケンクワウ)足を みかとの御腹の上にをきつ夜あけてのち客星(カクセイ)御 座ををかすことはなはたしと大史(タイシ)奏申けれは帝わ らひて朕故人厳子陵(ケンシリヤウ)と共に臥せりつとそのた まひける/s132r・m234 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/132?ln=ja