[[index.html|唐鏡]] 第四 漢武帝より更始にいたる ====== 20 新 王莽(2 滅亡) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami4-19|<>]] 天鳳三暦春二月に地震、竹柏((「柏」は底本「柄」。底本読み仮名「チクハク」により訂正。))なども枯れ折れにけり。冬十月には、朱雀門(しゆしやくもん)鳴ること、昼夜(ひるよる)やまざりけり。今暦、大いに寒くして、人馬凍り死ぬるもの多し。 次暦春正月に奇士あり。長(たけ)一丈、大十囲(い)、みづから巨毋霸((巨無霸。底本「巨」に「シ」、「覇」に「ハ」と読み仮名。))といふ。馬車にも乗せがたければ、大きなる車、四つの馬に乗せて、内裏へ参る。鼓(つづみ)を枕にして臥し、鉄(くろがね)の箸を持ちて、ものを食らふ。王莽、憎みて棄死せられつ。 地皇三暦の秋、太白微(び)に入りて地を照らすこと月のごとし。この時に、光武((光武帝・劉秀))、すでに兵をおこし給ふ((「おこし給ふ」は底本「おしたまふ」。内閣文庫本により訂正。))。王莽、はなはだ恐れをののきて、群臣を率ゐて、南郊(なんかう)に至りて、大いに哭(こく)す。 さるほどに、もろもろの兵いたりて、王莽が妻子((底本「セイシ」と読み仮名。))・父祖の冢(つか)を掘りあばき、その棺槨(くわんくわく)及び九廟・明堂などを焼く。城の内に火満ち満てり。 王莽、火を去りて、宣室の前殿に至るほどに、火また従ひて来たる。宮人・婦女なきをめきていはく、「いかかすべきや」。この時に、王莽は紺の服をきて、匕首(ひしゆ)をぞ持ちたりける。つやつや物も食はずして、気少なくして苦しべり。この時も従官千余人ばかりは従へり。 かかるほどに、軍(いくさ)の人ども、殿に乱れ入りて、高声(かうしやう)に呼ばひていはく、「反虜(はんりよ)王莽、いづくにかある」とののしるに、美人出でて、「漸台(ぜんだい)にある」と言ふを聞きて、追ふ兵(つはもの)囲むこと数百重、台上よりも弓弩(きゆうど)して射、下よりも射る。 王莽は室の下に入りて隠れたるを、商人(あきびと)杜呉といふもの、校尉を捕へてあり所を問ふに、「室の中、西北((底本「西」に「シユ/ウクル」と注記。))の階の間にあり」と言ふを聞きて、すなはち至りて、首(かうべ)を切りつ。軍人ども、その肉臠((底本「ニクヘン」と読み仮名。「臠」に「ニク」と注。))を分かちて争ひて、殺す者数十人。娘の王皇后が「何の面ありてか、また漢家を見む」とて、すなはち火に焼けて死ぬ。 王莽が首を持ちて、王憲にいたる。漢の大将軍と称して、城中の兵数十万みな属(つ)きぬ。王 憲、その首を持して、更始((更始帝・劉玄))に至る。その首を宛(えん)の市に懸く。百姓これを擲(な)げ撃ち、あるいはその舌を食らひけり。 王莽、位を奪へること十五暦なり。「古(いにしへ)より書き伝へに載せたるところの乱臣賊子、無道の人多かれども、その禍敗(くわはい)を考ふるに、王莽がごときはなはだしきものはなし」とぞ、時の人申しける。 [[m_karakagami4-19|<>]] ===== 翻刻 ===== 天鳳(テンホウ)三暦春二月に地震(チシン)竹柄(チクハク)なともかれおれにけり 冬十月には朱雀門(シユシヤクモン)鳴(ナル)こと昼夜(ヒルヨル)やまさりけり今暦/s117r・m212 大に寒して人馬凍死(コホリシ)ぬるものおほし次暦春正月に 奇士あり長一丈大十囲(イ)みつから巨(シ)毋霸(ハ)と云馬車にも のせかたけれは大なる車四の馬にのせて内裏へまい る鼓(ツツミ)を枕にして臥し鉄(クロカネ)の箸(ハシ)をもちてものを食(クラフ) 王莽にくみて棄死せられつ地皇三暦の穐太白微(ヒ)に 入て地をてらすこと月のことしこの時に光武すてに 兵をおしたまふ王莽はなはたをそれおののきて群臣を 卒(ヒキヰ)て南郊(なむかう)に至て大に哭(コク)す去ほとにもろもろの兵 いたりて王莽か妻子(セイシ)父祖(ソ)の冢(ツカ)をほりあはきその棺(クワン) 槨(クワク)をよひ九廟(ヘウ)明堂(メイタウ)なとをやく城のうちに火みちみ/s117l・m213 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/117?ln=ja てり王莽火をさりて宣(セン)室の前殿(センテン)にいたるほとに火 又したかひてきたる宮(キウ)人婦女(フシヨ)なきおめきていはく いかかすへきやこの時に王莽は紺(コン)の服(フク)をきて匕首(ヒシユ)をそ もちたりけるつやつや物もくはすして気すくなく してくるしへりこの時も従官(シウクハン)千餘人はかりはしたか へりかかるほとに軍の人共殿にみたれ入て高声に呼(ヨハイ)て いはく反虜(ハンリヨ)王莽いつくにかあるとののしるに美人いてて 漸臺(センタイ)にあると云をききて追(オフ)兵(ツハモノ)囲こと数百重臺上よ りも弓弩(キウド/キウノママ)して射下よりもいる王莽は室の下に 入てかくれたるを商人(アキヒト)杜(ト)呉と云もの校尉(カウイ)をとらへて/s118r・m214 有所をとふに室の中西(シユ/ウクル)北の階のあひたにありと云を ききてすなはちいたりて首(カウヘ)をきりつ軍人ともその 肉臠(ニクヘン/ニク)をわかちてあらそひてころすもの数十人むすめ の王皇后か何の面ありてか又漢家をみむとてすなはち 火にやけて死ぬ王莽か首をもちて王(ワウ)憲にいたる漢(カン) の大将軍と称して城中の兵数(ス)十万みな属(ツキ)ぬ王 憲その首を持して更(カウ)始にいたるその首を宛(エン)の市 にかく百姓これを擲撃(ナケウチ)或はその舌(シタ)をくらひけり 王莽位を奪へること十五暦也いにしへより書伝に 載(ノセ)たるところの乱臣賊(ソク)子無道(ムタウ)の人おほかれ共その/s118l・m215 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/118?ln=ja 禍敗(クワハイ)を考(カンカウ)るに王莽かこときはなはたしきものはなし とそ時の人申ける王莽の末になりて天下に旱蝗(カンクワウ)/s119r・m216 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/119?ln=ja