[[index.html|唐鏡]] 第四 漢武帝より更始にいたる ====== 19 新 王莽(1 簒奪) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami4-18|<>]] 王莽、平帝((平帝・劉衎))を鴆(ちん)し奉りて、宣帝((劉詢))の玄孫(やしはご)の暦二歳になり給へるを立てて皇太子として、孺子嬰(じゆしえい)と号した奉る。王莽、政(まつりごと)を摂(せつ)して、仮の皇帝と号す。 この時に、東郡の太守翟羲(てきぎ)といふ者、劉信を立てて天子としていはく、「王莽、平帝を殺し奉りて、天子の位を摂す。今ともに天罰を行ひて、王莽を誅(ちう)せん」と。王莽、怖(お)ぢて、孺子を抱(いだ)きて、天地に祷告(いのりつ)げて、王邑らをつかはして、翟羲を討ち破りて、威徳日々に盛りなり。 王莽、つひに真(まこと)の天子の位につく。国を新室((「室」は底本「守」に「シユ」と読み仮名。底本の異本注記により訂正。))と号し、暦を建国元暦とす。 伝国璽(でんこくじ)とて、帝王の宝物あり。王莽、「これを取らむ」と思ひて、王舜といふ者を使として、太后((王政君))に申す。この太后と申すは成帝((劉驁))の御母、王莽のおばなり。太后怒りて、王舜を罵(の)りてのたまはく、「なんぢが輩(ともがら)、恩義をかへりみず。われは漢家の老婦なり。旦暮(たんぼ)を知らず」とて、涕泣(ていきふ)し給ふ。左右、涙をたれずといふ者なし。 使の王舜も、悲しびに堪へず、やや久しくして、太后に申さく、「伝国璽をば、王莽、必ず得むと思へり。太后与へ給ふまじきにや」。この時に太后、王莽を恐れて、伝国璽を出だして、地に投げてのたまはく、「われは老いてすでに死なんとす。なんたちが兄弟の亡びんことを知れ」とぞのたまふ((「のたまふ」は底本「とはし給ふ」。底本の異本注記により訂正。))。 その後、漢の号は捨てられぬ。子、臨((王臨))をば皇太子とす。孺子をば定安公とす。殿より下りて、北面して臣と称す。百官の見る者、悲しびいたさずといふことなし。鴻臚府(こうろふ)をもちて、定安公を置き奉る。門を守る使者((底本「使」に「ツカイ」と注。))きびしくして、乳母(によぼ)に勅して、物語すること得ず。常には四方に壁ある中にぞ、すゑ奉りける。 王莽は成帝の舅(をぢ)、王曼が子なり。口大きに、頤(おとがひ)短かくして、眼赤く、声大きなり。身の長(たけ)七尺五寸、厚き履(くつ)、高き冠(かぶり)をぞ好みける。左右を瞰(にら)み見る鴟(とび)の目、虎の咰(くちさき)、豺狼((底本表記「材狼」))(さいらう)の声あり。 位を奪ひて後は、常に雲母の屏(へい)に隠れて、親しきにあらざる者には見ゆることなし。 この時、地陽県といふ所に、小人の顥(かげ)の長さ一尺余りなるが、あるいは馬車に乗り、あるいは徒歩(かち)より歩みなどして、よろづの物を持ちて、人に見えけり。また彗星((底本「ケイセイ」と読み仮名。))出でて、二十余日見えけり。 [[m_karakagami4-18|<>]] ===== 翻刻 ===== 王莽平(ヘイ)帝を鴆(チム)したてまつりて宣帝(センテイ)の玄孫(ヤシハコ)の暦 二歳になり給えるをたてて皇太子として孺子嬰(シユシエイ) と号(カウ)したてまつる王莽政を摂(セツ)して仮の皇帝と 号(カウ)すこの時に東郡(トウクン)の太守翟羲(テキキ)といふもの劉(リウ)信 をたてて天子としていはく王莽平帝をころした てまつりて天子の位を摂す今ともに天罰をおこ なひて王莽を誅(チウ)せんと王莽おちて孺子をいたき て天地に祷告(イノリツケ)て王邑等をつかはして翟羲(テキキ)をうち/s115l・m209 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/115 うちやふりて威徳(ヰトク)日々に盛(サカリ)なり王莽遂に真(マコト)の天 子の位につく国を新守(シンシユ)(室イ)と号し暦を建国(ケンコク)元暦 とす伝国璽(テンコクシ)とて帝王の宝物有り王莽これ をとらむとおもひて王舜と云ものを使として太后 に申すこの太后と申すは成帝の御母王莽のお は也太后怒(イカリ)て王舜を罵(ノリ)ての給はく汝かともから 恩義(ヲンキ)をかへりみす我は漢家の老婦(ラウフ)也旦暮(タンホ)をし らすとて涕泣(テイキウシ)たまふ左右涙をたれすといふもの なし使の王舜もかなしひにたえすややひさしく して太后に申さく伝国璽をは王莽かならす得む/s116r・m210 とおもへり太后あたえ給ましきにやこの時に太后王莽を おそれて伝国璽をいたして地になけての給はく 我は老てすてにしなんとすなんたちか兄弟のほろ ひんことをしれとそとはし(のイ)給ふそののち漢(カン)の号 はすてられぬ子臨(リン)をは皇太子とす孺(シユ)子をは定安公(テイアンコウ)と す殿より下て北面して臣と称す百官のみる ものかなしひいたさすと云事なし鴻臚府(コウロフ)をも ちて定安公(テイアンコウ)ををきたてまつる門をまもる使(ツカイ)者きひ しくして乳母(ニヨホ)に勅して物語すること得すつね には四方に壁(カヘ)ある中にそすへたてまつりける王莽は/s116l・m211 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/116 成帝の舅(ヲチ)王(ワウ)曼か子也口大に頤(ヲトカイ)短(ミシカク)して眼赤く声 大なり身の長(タケ)七尺五寸厚(アツ)き履(クツ)高(タカ)き冠(カフリ)をそこの みける左右を瞰(ニラミ)みる鴟(トヒ)の目虎(トラ)の咰(クチサキ)材狼(サイラウ)の声あり 位をうはいてのちは常に雲母(ウンホ)の屏(ヘイ)にかくれて親(シタシキ) にあらさるものにはみゆる事なしこの時地陽県(チヤウケン)と云 ところに小人の顥(カケ)の長一尺余なるか或は馬車にのり或は かちよりあゆみなとしてよろつのものをもちて 人にみえけり又彗星(ケイセイ)出て廿余日みえけり/s117r・m212 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/117