[[index.html|唐鏡]] 第四 漢武帝より更始にいたる ====== 18 漢 孝平帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami4-17|<>]] 第十二の主をば孝平皇帝((平帝・劉衎))と申しき。諱(いみな)は衎(えん)。元帝の庶孫(しよそん)、中山孝王((劉興))の子なり。御母をば衛姫(ゑいき)と申す。三歳にして王となり、九歳にて位につき給ふ。 太皇太后((王政君))、朝にのぞみ給ふ。王莽(わうまう)政(まつりごと)をとりて、百官すでに総て聞く。「王莽の徳、周公に比すべし」とて、号を安漢侯に賜ふ。 この御時、長安に女子児を生めり。両の頭(かしら)ありて、面(おもて)を異(こと)にして、あひ向うて、四つの臂ありて、尻の上に目あり。長さ二寸ばかり。 元始五暦、冬十二月に、王莽、鴆(ちん)((鴆毒))をもちて帝に奉る。その毒にて崩ふ給ひぬ。御暦十四在位、五暦なり。 高祖元暦乙未の年より、今暦に至るまでは二百十四暦、帝王は十二代、呂后((呂雉))を加へ奉らば十三主なり。((底本、「今暦に」以下を消して「元始五年乙丑マテスヘテ十一帝ニ呂后ヲ加テ二百十一年也」と異本注記。)) [[m_karakagami4-17|<>]] ===== 翻刻 ===== 第十二主をは孝平皇帝と申き諱は衎(エン)元帝の庶孫(シヨソン) 中山孝(カウ)王の子也御母をは衛姫(エイキ)と申す三歳にし て王となり九歳にて位につき給ふ太皇太后朝 にのそみ給ふ王莽(ワウマウ)政(マツリコト)をとりて百官已に総てきく 王莽(ワウマウ)の徳(トク)周(シウ)公に比すへしとて号を安漢侯(アンカムコウ)にた まふこの御時長安に女子児をうめり両の頭(カシラ)有て 面(ヲモテ)を異(コト)にして相向(アヒムカウ)て四の臂(ヒチ)ありて尻の上に目有 長二寸はかり 元始五暦冬十二月に王莽(マウ)鴆をもちて帝にたてまつる その毒にて崩給ぬ御暦十四在位五暦也高祖元暦/s115r・m208 乙未のとしより(イ元始五年乙丑マテスヘテ十一帝ニ呂后ヲ加テ二百十一年也)今暦に至迄は二百十四暦帝王は十 二代呂后を加へたてまつらは十三主也/s115l・m209 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/115