[[index.html|唐鏡]] 第四 漢武帝より更始にいたる ====== 17 漢 孝哀帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami4-16|<>]] 第十一主をば孝哀皇帝((哀帝・劉欣))と申しき。諱(いみな)は欣(きん)。元帝の庶孫、定陶恭王の子なり。御母をは丁姫(ていき)と申す。成帝((劉驁))、御子おはしまさずして、この帝を太子とし給ふ。御暦十九にて位につき給ふ。 この御時、白気ありて天につく。一疋の布のごとし。長さ十五丈にて、西南に行く。 また、定襄といふ所に牡馬(をむま)ありて、駒を生む。その駒、三つの足ありて、群馬にしたがひて物を食ふ。 また、陽郷といふ所に、倒(たふ)れたる樹、枝葉をなして、人の姿(かたち)のごとし。面目白くして髪あり。身の色青黄にして、一丈一寸ばかりなり。 また、零陵といふ所に、大きなる樹、地に倒(たふ)れたり。長さ十六丈七尺((「十六丈七尺」は底本「十六七寸」。底本の異本注記により訂正。))なるが、にはかにみづから立ちたり。 また、大魚の長さ八丈一尺余りなる見え侍りき。 また、天より血降りたり。これは佞人(ねいじん)禄(ろく)せられて、功臣戮(りく)せらるべき夭(えう)とぞ申すあり侍りし。 また、豫章(よしやう)といふ所に、男子、女子となりて後、人の妻となりて、一子を生みたりしこそあさましき災ひと承りしか。 元寿二暦六月に、帝、崩じ給ひぬ。御暦二十五、在位六暦なり。 [[m_karakagami4-16|<>]] ===== 翻刻 ===== 第十一主をは孝哀帝と申き諱は欣(キン)元帝の庶孫(シヨソン)定(テイ) 陶恭王(タウキヨウワウ)の子也御母をは丁姫(テイギ)と申成帝(セイテイ)御子おはし まさすしてこの帝を太子とし給御暦十九にて 位に即き給この御時白(ハク)気有て天に著(ツク)一疋の布 のことし長十五丈にて西南にゆく又定襄といふ所に 牡馬(ヲムマ)ありて駒をうむその駒三の足有て群馬に したかひて物を食亦陽(ヤウ)郷と云所にたふれたる樹/s114r・m206 枝葉をなして人のかたちのことし面目白して髪 あり身のいろ青黄にして一丈一寸はかり也又零陵(レイリヤウ)と 云所に大なる樹地にたふれたり長十六(丈七尺イ)七寸なるかにはか にみつからたちたり亦大魚の長八丈一尺餘なるみえ 侍き亦天より血(チ)ふりたりこれは佞人(ネイシン)禄(ロク) せられて功臣(コウシン)戮(リク)せらるへき夭(エウ)とそ申あり侍し亦 豫章(ヨシヤウ)と云所に男子女子となりてのち人の妻と なりて一子をうみたりしこそあさましき災と うけ給しか 元寿二暦六月に帝崩給ぬ御暦廿五在位六暦也/s114l・m207 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/114