[[index.html|唐鏡]] 第四 漢武帝より更始にいたる
====== 13 漢 孝元帝(2 王昭君・崩御) ======
===== 校訂本文 =====
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この御時に、宮中に美人多かりければ、数を尽くして御覧ずるに及ばず。絵師にてその姿(かたち)を写させて、それを御覧じて、みめ良き者を召しけり。しかあれば、われもわれもと絵師に物を取らせて、わが姿(かたち)をよく描かせけり。
王昭君といひし人は、斉国(セイコク)の王〓((〓は女偏に盧。))が娘なり。暦十七にて内へ参りたり。もとより美女なれば、絵師をもかたらはぬほどに、悪(わろ)く描きなしてけり。
その時に、夷(えびす)より、「女王一人給はりて后にせん」と申すに、「王昭君、みめ悪(わろ)ければ」とてつかはさんとしけるに、召して御覧ずれば、なべてならず見えけり。宮中にとりては第一なり。帝((元帝・劉奭))、驚きて悔ひ思しけれども、「王昭君といふ人をつかはさんするなり」と、夷に仰せられければ、召し代ふべきならずして、いふかひなくつかはしてけり。
王昭君、泣く泣く九重を出でぬ。見る人も目も当てられず。後に悪く描きたる絵師をば罪せられけれども、さらにかひなし。
もの恐ろしげなる夷、王昭君を受け取りて、馬に乗せて行きにけり。しぼりかねたる袖のしづくばかりぞ、旅の空の友とはなりにけり。さりながらも、道の間、悲しみをなぐさめんとて、琵琶をぞ弾かせける。夷の城にて、后とかしづくことたとふかたなかりけり。心憂しとても、暦月を経にければ、女子二人を生みてけり。
王昭君をば、晋の文帝((司馬昭))の時より改めて、王明君といへり。文帝の名の昭字にてありければ、はばかりて代へけるなり。おほかた漢朝の習ひにて、当時の帝王の名をば、かくはばかり、あらぬ文字の同じころなるに代ふるなり。
竟寧元暦夏五月に、帝、崩じ給ひぬ。御暦四十三、在位十六暦なり。
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===== 翻刻 =====
敬愛し給この御時に宮中に美人多かりけれは
かすをつくして御覧するにおよはす絵師(ヱシ)にて/s109l・m197
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/109
そのかたちをうつさせてそれを御らんしてみめ
よきものをめしけりしかあれはわれもわれもと
絵師に物をとらせてわかかたちをよくかかせけり
王昭君(ワウセウクン)といひし人は斉国(セイコク)の王(ワウ)〓かむすめなり暦
十七にて内へまいりたりもとより美女なれは
絵師をもかたらはぬ程にわろくかきなしてけり
その時にえひすより女王一人給はりて后にせん
と申すに王昭君みめわろけれはとてつかはさんと
しけるにめして御らんすれはなへてならす
みえけり宮中にとりては第一也御門おとろきて/s110r・m198
悔(クヰ)おほしけれ共王昭君と云人をつかはさんするなり
と夷(ヱヒス)におほせられけれはめしかふへきならすして
云かひなくつかはしてけり王昭君なくなく九重をい
てぬ見人も目もあてられすのちにわろくかきたる
絵師をはつみせられけれ共さらにかひなしもの
おそろしけなる夷王昭君をうけとりて馬にのせ
てゆきにけりしほりかねたる袖のしつくはかり
そたひのそらのともとはなりにけりさりなから
もみちのあひたかなしみをなくさめんとて琵琶を
そひかせける夷の城にて后とかしつく事たとふ/s110l・m199
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/110
かたなかりけり心うしとても暦月をへにけれは
女子二人をむみてけり王昭君をは晋(シン)の文帝の時より
あらためて王明君(ワウメイクン)といへり文帝の名の昭字(セウシ)にて
有けれはははかりてかへけるなりおほかた漢朝のな
らひにて当時の帝王の名をはかくははかりあら
ぬ文字のおなしころなるにかふる也
竟寧(ケイネイ)元暦夏五月に帝崩給ぬ御暦四十三在位
十六暦也/s111r・m200
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/111