[[index.html|唐鏡]] 第四 漢武帝より更始にいたる ====== 8 漢 孝昭帝(1 誕生・即位) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami4-07|<>]] 第七の主をば孝昭皇((昭帝・劉弗陵))と申す。諱(いみな)は弗。武帝の小子なり。御母は趙婕婦(てうせうふ)((鈎弋夫人・鉤弋夫人・趙婕妤。[[m_karakagami4-06]]参照。))なり。帝御門をはらみ奉り、十四月にして生み奉り、武帝((劉徹))聞き給ひて、「昔、尭(げう)と申しし君、十四月にして生まれ給へり。今またかくのごとし。その生まれ給へる家の門を名付けて、尭母門(げうぼもん)といふべし」とぞ仰せられける。 帝、五六暦のほどにて、ゆゆしく盛りに大にして、智恵人に過ぎ給へれば、武帝愛し奉りて、「われに似たり」とぞ思しける。 武帝、御病はなはだしくなりぬれば、この帝を太子と定め給ひぬ。霍光(くわつくわう)とていみじき臣下を大司馬大将軍といふ官になし給ひて、「小主を助くべし」と遺制(いせい)あり。次の日、武帝失せ給ひぬれば、帝、位につき給ふ。御暦八歳なり。 霍光、摂政として政を行ふ。天下みないみじく思ひたる中に、あるいはは讒言(ざんげん)などしけれども、帝用ゐ給はずして、ひとへに霍光を頼み給へり。御門、御暦十四の時に、ある者また讒言しけるに、帝怒りてのたまはく、「大将軍は忠臣なり。先帝われに属(しよく)し給へり。われを助けて久しくなりぬ。讒せん者をば罪(つみ)せん」とのたまひしかば、人みな申しやみにけり。 元鳳三暦春正月に、泰山といふ所に大きなる石、みづから起き立てり。高さ五丈五尺、大きさ三十八囲、地に入ることは八尺、三つの石を足として立てり。また、上林苑の中に、枯れて久しくなりし大柳の樹、みづから立ちて生ひたり。虫ありて、その樹を食ひて文字をなししこそ不思議と申すか。 [[m_karakagami4-07|<>]] ===== 翻刻 ===== 第七主をは孝昭(カウセウ)皇と申す諱は弗武帝の小子也御母 は趙婕婦(テウシヨウフ)なり御門をはらみたてまつり十四月にし てむみたてまつり武帝きき給て昔尭(ケウ)と申し君十 四月にしてむまれ給へりいま又かくのことしその/s105r・m188 むまれたまへる家の門をなつけて尭母(ケウホ)門といふへし とそおほせられける御門五六暦のほとにてゆゆしく さかりにおほきにして智恵(チヱ)人に過給へれは武帝愛し たてまつりてわれににたりとそおほしける武帝御 やまひはなはたしくなりぬれはこの御門を太子と さため給ぬ霍光(クワツカウ)とていみしき臣下を大司馬(タイシハ)大将軍 と云官になし給て小主をたすくへしと遺制(イセイ) あり次日武帝うせ給ぬれは御門位につき給御暦 八歳なり霍光摂政(セツシヤウ)として政をおこなふ天下みな いみしく思たる中に或(アルイ)は讒言なとしけれ共/s105l・m189 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/105 御門もちい給はすしてひとへに霍光をたのみ給へり御 門御暦十四の時に或もの又讒言(サンケン)しけるに御門いか りての給はく大将軍は忠臣なり先帝われに属(シヨク)し 給へりわれをたすけてひさしくなりぬ讒せんもの をはつみせんとのたまひしかは人みな申やみにけり 元鳳(クヱンホウ)三暦春正月に泰山と云所に大なる石みつから おきたてり高五丈五尺大さ三十八圍地にいる事は八尺 三の石をあしとしてたてり又上林苑の中にかれ てひさしくなりし大柳ノ樹みつからたちておひ たり虫(ムシ)ありてその樹をくいて文字をなししこそ/s106r・m190 ふしきと申か/s106l・m191 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/106