[[index.html|唐鏡]] 第四 漢武帝より更始にいたる ====== 1 漢 孝武帝(1 誕生・即位) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami3-17|<>]] 第六の主は孝武皇帝((劉徹))と申しき。諱は徴(てつ)((徹の誤り。))。景帝の中子なり。御母を王皇后と申す。この后(きさき)は、昔、金王孫といふ人に嫁ぎて、一女を生み給へり。 后の母臧児(ざうじ)、王皇后の貴かるべきやうを卜筮(ぼくぜい)して、金氏を奪へるほどに、孝景の太子にておはしましし時、寵愛し給ひて、三女一男を生み給へり。日、懐(ふところ)の中 に入ると夢に見て、帝を孕み奉られき。 「凡俗(ぼんぞく)の子を生みたる腹には、帝王はやどり給はず」など申すこともあれども、これはめでたき佳例(かれい)なり。帝王は胎内にやどり給ふより、三十三天守護して、子のごとくし奉るゆゑ天子とは申すなり。『最勝王経』に説かれたり。また、天を父とし、地を母とし、日を兄(このかみ)とし、月を姉(あね)とし給へるゆゑ天子と申せり。 乙酉の年、七月七日、猗蘭殿(いらんでん)((底本表記「倚蘭殿」))にして生まれ給へり。御暦十六にして位につき給ふ。その暦、辛丑を建元元暦と申しき。いにしへよりの帝王、いまだ暦号なかりき。この御時より、初めて付けたられたり((底本、「初めて付けたられたり」を「はじまる」と異本注記。)。 [[m_karakagami3-17|<>]] ===== 翻刻 ===== 唐鏡第四  漢武帝より更始にいたる 第六主は孝武皇帝と申き諱は徴(テツ)景帝の 中子也御母を王(ワウ)皇后(武帝母□金王孫事)と申この后(キサキ)はむかし 金王孫(キンワウソン)といふ人に嫁(トツキ)て一女を生給へり后の母 臧児(サウシ)王皇后の貴かるへきやうを卜筮(ボクゼイ)して金氏(キンシ)を 奪(ムバ)へるほとに孝景(ケイ)の太子にておはしましし時寵(テウ) 愛(アイ)し給て三女一男を生たまへり日懐(フトコロ)の中 に入と夢に見て帝をはらみたてまつられ き凡俗(ホンソク)の子をむみたる腹には帝王はやとり/s97l・m173 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/97 給はすなと申事もあれともこれはめてたき佳例(カレイ) なり帝王は胎内(タイナイ)にやとり給より三十三天守護(シユコ) して子のことくしたてまつるゆへ天子とは申なり 最勝王経にとれかたり亦天を父とし地を母とし 日を兄(コノカミ)とし月を姉(アネ)とし給へるゆへ天子と申せり 乙酉のとし七月七日倚蘭(イラン)殿にしてむまれ給へり 御暦十六にして位につき給その暦辛丑を 建元々暦と申きいにしへよりの帝王いまた 暦号なかりきこの御時よりはしめてつけられたり(イまる)/s98r・m174 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/98