[[index.html|唐鏡]] 第三 漢高祖より景帝にいたる ====== 15 漢 孝文帝(5 崩御) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami3-14|<>]] 後元三年の秋、大いに雨降りて、昼夜絶えざること四十五日、民家の流れたる八千余り、死ぬる者三百余人なり。かやうの聖代にも、かかる災難((底本「セイナン」と読み仮名。))ありしなり。 帝((孝文帝・劉恒))、「露台を作らむ」とて、匠(たくみ)を召して問はるるに、「価(あたい)百金」と申しければ、帝のたまはく、「百金は中人の十家の産なり。われ先帝の宮室(きうしつ)につかまつりて、常に恐れ恥づ。何ぞ台を作らむ」とて、とどめられぬ。 御身には薄き衣(きぬ)の赤色(あかいろ)なるを奉り、幸し給ふところの慎しみ、夫人の御衣(おんぞ)地にひくことなく、内裏の帷帳なとも繍((底本「ヌイモノ」と読み仮名。))などはとどめられて、ある時は上書嚢(じやうしよなう)を取り集めてぞ、御殿の帷にはせられける。 張武など申す人々、賂(まいなひ)の金銭を受けたるよし、あらはれぬれば、さらに賞賜(しやうし)し給ひて、その心をぞ恥ぢしめさせ給ひける。 およそこの帝、徳天地に等しく、沢((底本「沢」に「ウルホヒ」と読み仮名。))四海にほどこし、道徳、仁義の叡情((底本「エイセイ」と読み仮名。))、倹約撫民(けんやくぶみん)の徳政、上世のおよびがたきところなりとぞ讃め申しける。 後元七年、夏六月に崩じ給ひぬ。御歳四十六、御在位二十三年なり。遺詔((底本「ユイゼウ」と読み仮名。))に曰はく、「死は天地のことわり、物の自然なり。はなはだ悲しむべきにあらず。覇陵を治せむに金銀銅を飾るべからず。瓦の器(うつはもの)を用ゐるべし。ことごとく((「ことごとく」は底本「こと」。底本の異本注記のより訂正。))倹約なるべし」となり。 [[M_KARAKAGAMI3-14|<>]] ===== 翻刻 ===== 後元三年の秋大に雨ふりて昼夜たえさる事四十 五日民家のなかれたる八千餘死ぬるもの三百余人 なりかやうの聖代にもかかる災難(セイナン)ありしなり 帝露台をつくらむとてたくみをめしてとはるるに あたい百金と申けれは御門のたまはく百金は中 人の十家の産なりわれ先帝の宮室(キウシツ)につかまつ/s88l・m161 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/88 りてつねにおそれはつ何そ臺をつくらむとてとと められぬ御身にはうすききぬのあかいろなるを たてまつり幸したまふところの慎夫人の御衣地 にひく事なく内裏の帷帳なとも繍(ヌイモノ)なとはととめら れて或時は上書嚢(シヤウシヨナウ)をとりあつめてそ御殿の帷 にはせられける張武なと申す人々賂(マイナヒ)の金銭をう けたるよしあらはれぬれはさらに賞賜(シヤウシ)し給て そのこころをそはぢしめさせ給ける凡このみかと 徳天地にひとしく沢(ウルホヒ)四海にほとこし道徳仁義(トウトクシンキ)の 叡情(エイセイ)倹約撫民(ケンヤクフミン)の徳政上世のおよひかたき所也とそ/s89r・m162 ほめ申ける後元七年夏六月に崩給ぬ御歳四十 六御在位廿三年也遺詔(ユイゼウ)に曰死は天地のことわり物の自 然なりはなはたかなしむへきにあらす覇陵(ハリヨウ)を治せ むに金銀銅をかさるへからす瓦の器(ウツハモノ)をもちゐる へしこと(悉クイ)倹約なるへしとなり/s89l・m163 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/89