[[index.html|唐鏡]] 第三 漢高祖より景帝にいたる ====== 11 漢 孝文帝(1 即位) ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami3-10|<>]] 第四の主をば孝文皇帝((劉恒))と申しき。諱(いみな)は恒。高祖((劉邦))の中子なり。御母を薄太后と申す。 呂后((呂雉))失せ給ひて、諸呂(しよりよ)、呂産らが乱((底本「争」と異本注記。))をなして、劉氏をあやぶめむとせしを、大臣たち、うち殺して後、丞相陳平、大尉周勃ら、人をして文帝を迎へ奉るに、文帝((底本「モンタイ」と読み仮名。))、張武といふものに問ひ給ふ。張武が申さく、「漢の大臣は、みなもとの高祖の時、大将なり。兵にならひて謀詐多し。願はくは大王、病を称して行き給はずして、その変を見るべし」と申す。 中尉宋昌、進みて申さく、「群臣の議((底本「シヨ」と読み仮名。))にあらざるなり。秦、その政を失なひて、諸侯・豪傑ならびにおこる人々みな思へらく、『これを得るものは万数((底本「万」に「マン/バン」、数に「ス」と読み仮名。))なり』と思へり。しかも、つひに天子の位を踏まむものは劉氏なり。これ、天の授くるなり。人の力にあらず。高帝の子は一人淮南王と大王となり。大王長じて、賢聖(けんせい)、仁孝(じんかう)天に聞こえ給へり。かるがゆゑに、大臣・天下の心によりて、大王を迎へ奉りて立てむとす。大王たがふことなかれ」と申す。 文帝、猶予((ゆよ))して亀卦(くゐくわ)に卜(うらな)はしむるに、兆(てう)に大横(たいくわう)を得たり((「得」は底本「み」。底本の異本注記により訂正。))たり。占(せん)にいへらく、「大横庚たり。余(われ)天王たらん」。天王といふは天子なり。丞相以下みな迎へ奉り、文帝馳せて、渭橋(いけう)といふ所に至り給ふ。 群臣拝謁して、臣((「臣」は底本「呂」。底本の異本注記により訂正。))称す。文帝、車よりおりて拝し給ふ。大尉勃(ぼつ)((周勃))、申さく、「願はくは、ひまをうけて申さむ」。宋昌が云く、「申すところに公(おほやけ)ならば、あらはに申せ。申さむところ私(わたくし)ならば、王者は私を受けず」と言ふに、すなはちひざまづきて、天子の璽(しるし)を奉る。文帝ののたまはく、「高帝の宗廟(そうべう)につかまつらむことは、重事(ちやうじ)なり。寡人(くわじん)、あへて当たらじ」とのたまふ。群臣、みな臥してかたく乞ふ。文帝、西に向かひて譲り給ふこと三度(みたび)、南に向かひて譲り給ふこと二度(ふたたび)、丞相ら申さく、「臣ら、宗廟社稷のために謀(はか)り乱ること((「計り乱ること」は底本「はらみる事」。底本の異本注記により訂正。))あへていかにせし。願はくは大王、さいはひに臣らに聴き給へ。臣ら、慎しんで天子の璽符(じふ)をもて、再拝して奉る」と言ふ。 つひに天子の位につき給ふ。元年壬戌の年なり。群臣、礼をもて次(ついで)のままに侍り。こよひ、宋昌を拝して衛将軍とす。 [[m_karakagami3-10|<>]] ===== 翻刻 ===== 第四の主をは孝文皇帝と申き諱(イミナ)は恒(ゴウ)高祖の中 子也御母を薄(ハク)太后と申す呂后うせ給て諸呂(シヨリヨ)呂産(サム)等 か乱(イ争)をなして劉氏(リウシ)をあやふめむとせしを大臣たち うちころして後丞相陳平(チンヘイ)大尉(タイヰ)周勃(シウボウ)等人をして 文帝をむかへたてまつるに文帝(モンタイ)張武(チヤウブ)と云ものに問 給ふ張武か申さく漢の大臣はみなもとの高祖の時 大将なり兵にならひて謀詐多しねかはくは大 王病を称してゆき給はすして其変をみるへし と云(マウ)(申イ)す中尉(チウイ)宋昌(ソウシヤウ)すすみて申さく群臣の議(シヨ)非也 秦(シム)その政をうしなひて諸侯豪傑(カウケツ)ならひにおこる/s82l・m149 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/82 人々みなおもへらくこれを得ものは万(マン/バン)数(ス)なりとお もへりしかも遂に天子の位をふまむものは劉氏也是 天のさつくる也人の力(チカラ)にあらす高帝の子はひとり淮(クハイ) 南王(ナンワウ)と大王となり大王長して賢聖(ケンセイ)仁孝(シムカウ)天にき こえ給へりかるかゆへに大臣天下の心によりて大王を むかへたてまつりてたてむとす大王たかふことなかれと 申す文帝猶豫(ユヨ)して亀(クヰ)卦(クウ/クハ)に卜(ウラナハ)しむるに兆(テウ)に大横(タイクワウ)を み(ゑイ)たり占(セン)にいへらく大横庚(カウ)たり余(ワレ)天王たらん天王 といふは天子也丞相以下みなむかへたてまつり文 帝馳(ハセ)て渭橋(イケウ)と云所にいたり給群臣(クンシン)拝謁(ハイヱツ)して/s83r・m150 呂(臣イ)称す文帝車よりおりて拝し給ふ大尉勃(ホツ)申 さくねかはくはひまをうけて申さむ宋昌(ソウシヤウ)か云く申 すところに公(オホヤケ)ならはあらはに申せ申さむところ私(ワタクシ) ならは王者は私をうけすと云にすなはちひさまつ きて天子璽(シルシ)をたてまつる文帝ののたまはく高帝 の宗廟(ソウヘウ)につかまつらむ事は重事(チヤウシ)なり寡人(クツアシム)あへて あたらしとのたまふ群臣みなふしてかたくこふ 文帝西にむかひてゆつり給事三たひ南にむかひて 譲(ユツリ)給事二たひ丞相等申さく臣等宗廟社稷(シヤショク) のためにはらみる(イ計リミタル)事敢ていかにせしねかはくは/s83l・m151 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/83 大王さいはひに臣等に聴(キキ)たまへ臣等つつしむて天 子の璽符(シフ)をもて再拝(サイハイ)してたてまつるといふ遂に 天子の位につき給ふ元年壬戌のとし也群臣(クンシン)礼(レイ)を もて次(ツイテ)のままに侍りこよひ宋昌を拝して衛(ヱイ)将軍 とす夏四月斉楚の山廿九まて同日にくつれて水/s84r・m152 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/84